
「骨喰(ほねばみ)」という名を初めて聞くと、どれほど恐ろしい刀なのだろうと想像するかもしれません。重要文化財の骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)は、もとは薙刀として作られ、後に刀へと姿を変えた一振りです。豊臣秀吉も所持したと伝わるその刀には、勇ましい名前の由来だけでなく、刀身に彫られた龍や、長く受け継がれてきた歴史にも目を向けたいところです。
骨喰藤四郎の概要 ―― 「伝」の一字が示すこと
文化財としての指定名称は「薙刀直シ刀〈無銘伝粟田口吉光/〉(名物骨喰藤四郎)」。読み方は「なぎなたなおしとう〈むめいでんあわたぐちよしみつ/〉(めいぶつほねばみとうしろう)」です。鎌倉時代の作で、刃長は58.8センチ、反りは1.4センチ。京都の豊国神社が所有し、京都国立博物館で保管されています。重要文化財の指定年月日は1950年8月29日です。粟田口吉光は、京都の粟田口派(あわたぐちは)に属した刀工で、藤四郎という通称でも知られます。ただし、この刀は無銘、つまり作者の名前を刻んだ銘が残っていません。指定名称にある「伝(でん)」は、吉光の作と伝えられてきたことを示します。「藤四郎」という名だけを見て、本人の署名が残る刀だと受け取らないことが、この名刀を知る最初の一歩です。
薙刀から刀へ ―― 姿に刻まれた変化
薙刀は、長い柄の先に刃を付けて使う武器です。骨喰藤四郎は、もとの薙刀の刀身を直して刀として用いられる姿になりました。「薙刀直し」とは、そのような作り替えを指す言葉です。いまの長さや輪郭だけを見て、鎌倉時代に作られたときから同じ形だったと考えることはできません。また、いつ直されたのかも、はっきりとは分かっていません。注目は、刀身に施された彫刻です。京都国立博物館の研究員による解説では、片面に剣へ絡みつく龍が彫られ、その剣の柄には密教の法具である三鈷杵(さんこしょ)の形が見られます。反対側には梵字も刻まれています。剣と龍の組み合わせは倶利伽羅龍(くりからりゅう)と呼ばれ、不動明王と結び付く意匠です。
足利将軍家から豊臣家へ ―― 伝来をたどる
骨喰藤四郎は、足利将軍家にも伝わったとされ、のちに九州の大友家や豊臣家、徳川将軍家とのつながりが語られています。とりわけ豊臣秀吉が所持した刀として知られ、東京国立博物館が紹介する江戸時代の写しの解説には、原品が秀吉から豊臣秀頼へ、さらに徳川秀忠の蔵刀となったと記されています。武将の名前を一つずつ並べるだけでなく、時代が変わっても名刀として扱われ続けたことに目を向けると、その重みが伝わってきます。豊国神社がこの刀を所有する現在の姿にも歴史があります。観光庁の解説では、徳川家に伝わったのち、明治維新後に徳川家の当主から、秀吉を祀る豊国神社へ寄贈されたとされています。所有者は豊国神社、保管施設は京都国立博物館です。
「骨まで砕く」は事実?名前の由来と火災の記録
京都国立博物館は、斬りつけるまねをするだけで相手の骨が砕ける、という話を骨喰藤四郎の伝説として紹介しています。強烈な名前はこの逸話と結び付きますが、実際にそのような力があったことを示す記録ではありません。名刀にまつわる物語として伝わる一方、確認できる刀身の特徴や伝来とは分けて考えたいところです。また、この刀の歩みを知るうえでは、火災も欠かせません。東京国立博物館の解説によると、刀工・越前康継(えちぜんやすつぐ)が骨喰藤四郎を写した作品は、原品が火災に遭う前に作られました。また、美術史研究の発表要旨では、原品は明暦の大火で焼け、その後に再刃(さいば、刀身に再び焼き入れを行うこと)されたため、現在の刃文や地鉄(じがね、刀身表面に見える鋼の模様)は制作当初の姿とは異なると説明されています。火災以前の姿を伝える写しや記録があることも、この刀の歴史を考える大切な手がかりです。
名刀の価値を考えるときに
骨喰藤四郎には、作者の伝承、薙刀からの作り替え、刀身彫刻、火災と修復、武将たちに伝わった記録が重なっています。その価値を「有名な刀工の名が付いているから」と一つの理由にまとめることができません。銘の有無だけでなく、姿や保存状態、修復の履歴、来歴を示す資料まで確かめることが、刀剣を理解するうえで重要です。
まとめ ―― 名前の迫力の先にある歴史
骨喰藤四郎は、「骨まで砕く」という伝説で知られる一方、薙刀を直した姿や、龍と剣を表した刀身彫刻にも豊かな見どころを持つ重要文化財です。粟田口吉光の作と伝わりますが、刀身に作者の銘は残っていません。火災や修復も経てきた一振りを、制作当初の姿をそのまま保つ刀として見ることはできません。伝説、史料、現在の姿をそれぞれ確かめると、名刀として受け継がれた理由がより立体的に見えてきます。