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公開日:2025/02/06  

日本の重要文化財刀剣「愛染国俊」とは?

日本の重要文化財刀剣「愛染国俊」
愛染国俊(あいぜんくにとし)は、鎌倉時代に作られた短刀で、日本の重要文化財に指定されています。大阪府茨木市のある法人が所蔵しており、「亨保名物帳」にも記載される二字国俊の在銘短刀の一振りです。

愛染国俊という名前の由来

名称の由来は、茎の部分に刻まれた「国俊」の銘の上に、愛染明王像が彫られていることにあります。この特徴的な彫刻が、「愛染」の号を持つ理由とされているのです。
愛染明王(あいぜんみょうおう)は、密教における明王の一尊で、憤怒の表情を持つ尊格として信仰されています。衆生を解脱へ導くために武器を手にし、守護仏としての役割を果たします。また、「愛染王」とも称され、戦国時代には軍神として武将たちから厚く崇敬されました。その力強い姿勢が、戦いに挑む者たちの信仰を集めた理由の一つとされます。

刀身について

刃長は28.7cm、反りは0.2cm、元幅は2.7cm。造り込みは平造りで、庵棟(いおりむね)を持ち、身幅が広く浅く反っています。
刃文は互の目(ぐのめ)乱れで、鍛えは梨子肌(なしはだ)となっており、匂が深く小沸が付いています。帽子は乱れ込み、返りがあります。指表には素剣が彫られ、指裏には棒樋と腰樋が施されています。
茎は生ぶで、鑢目(やすりめ)は切り、銘は「國俊」と刻まれています。また、目釘孔の上には、号の由来ともなった愛染明王の彫刻が施されています。

来歴

もともとは豊臣秀吉が所持していましたが、その後徳川家康の手に渡りました。元和2年(1616年)、大坂の役で戦功を挙げた森美作守忠政に下賜されたと伝えられています。
その後、3代将軍徳川家光の養女・大姫が加賀藩主前田光高に嫁ぎ、2人の間に生まれた長男・犬千代丸(後の第4代藩主前田綱紀)は、1644年(正保元年)に大姫とともに江戸城へ登城し、祖父・家光に初めてお目見えしました。その際に愛染国俊を賜り、以降は金沢前田家に伝わりました。
1933年(昭和8年)には前田利為侯爵の名義で重要美術品に認定され、1935年(昭和10年)には国宝保存法に基づく旧国宝に指定されました。1950年(昭和25年)の文化財保護法施行後は重要文化財となり、「短刀銘国俊(名物愛染国俊)」の名称で登録されています。その後、加賀前田家の所有を離れ、2000年時点では千葉県千葉市の個人蔵でしたが、2016年までに大阪府茨木市の法人へと所有が移りました。2019年時点では、日本刀剣博物技術研究財団が保存に関与しています。

まとめ

「愛染国俊」は、二字国俊作の在銘短刀であり、「享保名物帳」にも記載されています。その名の通り、刀身には愛染明王が刻まれ、茎にも毛彫が施されています。このような装飾が施された刀剣は、修験道においても高い価値を持つものとされています。
地鉄は小板目が詰み、地沸が細かく付いており、刃文は互の目がやや乱れた形状をしています。その伝来は、豊臣秀吉が所持していた後、森蘭丸の弟である森忠政に与えられたとされます。ただし、「本阿弥家の名物控」には、将軍徳川秀忠より忠政が拝領したと記録されています。しかし、押形との年代が一致しないため、「享保名物帳」の編集時に秀吉より拝領したと改められたと考えられます。
忠政の没後、この短刀は徳川家光に献上されました。家光は、養女である大姫を加賀前田家に嫁がせましたが、その大姫が1644年(正保元年)に初孫である犬千代丸(のちの前田綱紀)を伴い江戸城に登城した際、わずか2歳の犬千代丸に愛染国俊を授けました。これは孫の成長を願い、愛染明王の加護を願ったものと考えられます。
以降、前田家に伝来し、同家の記録にも「御拝領名物 愛染国俊 銘有 九寸五分 百枚代付」と記されています。昭和10年(1935年)には国宝に指定されましたが、戦後に前田家を離れ、現在は重要文化財として指定されています。また、刀剣買取市場においても、歴史的価値の高い名刀は注目を集めています。愛染国俊のような伝来の確かな刀剣は、専門家の間でも高い評価を受けるため、買取の際は適切な鑑定が重要です。

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