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公開日:2024/05/01  

ソハヤノツルキは徳川家康の愛刀!どんな刀剣なのかご紹介

徳川家康の愛刀
現存する名刀のうち、江戸幕府を開いた徳川家康の愛刀として伝わるものに、ソハヤノツルキがあります。ではソハヤノツルキとはどんな刀剣なのでしょうか?ここではソハヤノツルキの特徴や家康の手もとに渡った経緯、家康が愛したエピソードおよび現在も久能山東照宮に収蔵されているソハヤノツルキについて紹介していきます。

ソハヤノツルキとは?

国の重要文化財に指定されているソハヤノツルキは、現在の福岡県北部にあたる築後国で、平安末期に活躍した刀工、三池典太光世(みいけてんたみつよ)の作とされます。ソハヤノツルキの長さは69.6センチメートル(二尺三寸三分)、反り2.5センチメートル(八分五厘)あり、切付銘は指裏に妙純傳持(みょうじゅんでんじ)ソハヤノツルキ、指表にウツスナリとの記載があります。

その様子から平安時代の公卿で征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が身に着けた楚葉矢(そはや)の剣を写したものとされます。駿河を拠点にしていた御宿(みしゅく)氏の先祖が、源頼朝より拝領したと伝わったものとされます。そのほかにも、妙純傳持の刻銘により、室町時代に活躍した、美濃守護代、斎藤妙純(さいとうみょうじゅん)が所持していた刀という説があります。

ソハヤノツルキにまつわるエピソード

ソハヤノツルキは、その神秘的な魅力と独特なエネルギーで多くの人々を惹きつけてきました。ここではソハヤノツルキにまつわるいくつかのエピソードを紹介しましょう。

大坂の陣で豊臣方についた御宿勘兵衛

では、御宿氏の家宝だったソハヤノツルキがなぜ徳川家康の愛刀になったのでしょうか?戦国時代末期から江戸初期にかけて活躍した御宿氏の当主御宿勘兵衛政友(みしゅくかんべえまさとも)は、はじめ武田勝頼に仕え、その後北条氏直に仕えたのち、徳川家康の家臣となりました。

その後、家康の次男結城秀康、その子松平忠直に仕えます。ところが勘兵衛は忠直とそりが合わず間わず、1610年には忠直の元を離れ浪人となります。その後に起きた大坂の陣にて、勘兵衛は豊臣方として参加しました。本町橋の夜討ちや真田丸に加勢するなど豊臣方の武将として活躍します。しかし、大坂夏の陣の最終戦、天王寺・岡山の戦いにて幕府軍に討ち取られました。

勘兵衛の子であった御宿源左衛門が赦免を願って献上

豊臣方として戦った御宿勘兵衛の一族は、本来なら幕府に捕らえられ処刑される運命となりました。勘兵衛には養子として御宿源左衛門貞友(みしゅくげんざいもんさだとも)がいました。そこで家康に赦免を願うために、ソハヤノツルギを家康に献上しました。

こうしてソハヤノツルギは家康の愛刀となります。また「久能山東照宮宝物目録」では、まったく異なる伝承が残されており、それによれば、小牧・長久手の戦い後に織田信雄(おだのぶかつ)から家康に贈られたとされます。

家康は死の直前に久能山東照宮に奉納

家康に献上されたソハヤノツルギはたいへん愛用されました。陣中でもなんどか身に着けており、死の直前まで手元から外しませんでした。家康は枕もとに置いて枕刀にしたほどで、1616年の死の前日にも家臣の彦坂光正(ひこさかみつまさ)に命じて罪人に対して試し切りをさせたほどです。光正はとても心地よく切れたと報告したところ、家康は満足し自ら刀を振りました。

そして神職でもあった榊原照久(さかきばらてるひさ)に向かい、家康は「われ亡きあとは久能山に納めよ」といいます。さらに、臨終を迎える日はそれに追加し、西国の大名はまだまだ不安であるからと、刀の切り先を西に向けるように指示しています。これは徳川家の子孫を守る意味がありました。また試し切りの後に奉納したので、血の付いたままとの説もあります。

ソハヤノツルキは今も久能山東照宮に納められている

ソハヤノツルキは、家康の命により久能城を廃して、新たに創建された久能山東照宮に納められ、そのまま現在も久能山東照宮に納められています。記録によれば、1853年3月に本阿弥長識(ほんあみちょうしょく)が刀を研いでおり、その後1910年には明治天皇がソハヤノツルキを天覧されました。1911年4月17日には旧国宝に指定されましたが、この日は偶然にも家康の命日でした。

旧国宝は現在の重要文化財に該当し、1950年に重要文化財に指定され、引き続き久能山東照宮が所蔵しています。その後、1960年に人間国宝の刀匠・宮入正平(みやいりゆきひら)がソハヤノツルキの模造刀を作り、久能残東照宮に納められました。最近では2022年4月に、久能山東照宮博物館の春季刀剣特別展にてソハヤノツルキが一般公開されました。

まとめ

徳川家康の愛刀ソハヤノツルキは、平安末期の刀工により征夷大将軍坂上田村麻呂の楚葉矢(そはや)の剣を写したものとして、最終的に家康の手もとに届きました。刀を手にした家康は死の間際まで愛刀として、徳川の世が安泰になることを願い、久能山東照宮に納めるように指示を出しました。

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