幕末の剣士 鈴木三樹三郎
鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう)は新選組の九番隊組長として活躍した剣士ですが、その名はあまり知られていません。彼は1837年に常陸国(現在の茨城県)の志筑藩藩士の次男として生まれ、実兄に新選組参謀となった伊東甲子太郎がいます。鈴木は名前を何度も変えたことで知られ、寺内増右衛門の養子となった際には寺内多聞と名乗り、素行不良で離縁された後は三木荒次郎と改名しました。
1864年、新選組隊士に応募し、三木三郎の名で活動を始めました。翌年には九番隊組長となり、その後、実兄の伊東甲子太郎が暗殺されたことをきっかけに新選組を離れ、御陵衛士に加わります。
刀剣「鬼神丸国重」
鈴木三樹三郎が所持していた刀の一つが「鬼神丸国重」です。この刀は江戸時代の摂津国で作られ、刀工は長兵衛という俗名で知られています。彼は備中国出身で、水田派の安左衛門国光の子として生まれ、二代河内守国助の門人となりました。江戸、秋田、薩摩など各地で作刀し、その作風は大乱れの刃文が特徴です。茎には「摂州住国重」や「摂州住池田鬼神丸国重」といった銘が刻まれています。
鬼神丸国重と検索すると、新撰組の隊士・斉藤一の名が多く見受けられますが、これは鈴木三樹三郎の刀と斉藤一の刀が同じ刀工によるものであったためです。
刀剣「備前長船」
鈴木三樹三郎が持っていたもう一つの刀が「備前長船」です。鎌倉時代から台頭した長船派は、備前国邑久郡長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点とし、日本刀史上最大の流派として知られています。長船派の刀剣は「長船物」として高く評価され、多くの名匠・名刀を生み出しました。刃文の変化は鎌倉中期の丁子、末期の直刃に小互の目、南北朝時代ののたれ、室町時代の複雑な互の目の乱れなど、時代ごとに異なる特徴を持っています。長船派の刀剣はその美しさと実用性から高く評価され、現在でも刀剣愛好家やコレクターに人気です。
まとめ
鈴木三樹三郎は新選組の一員として、多くの波乱万丈な人生を送りました。彼が所持していた「鬼神丸国重」や「備前長船」といった刀剣は、彼の存在を証明する重要な手がかりとなります。
これらの刀剣は、それぞれの刀工の技術と歴史を物語るものであり、刀に興味を持つ人々にとって貴重な文化財です。また、鈴木三樹三郎のように、時代の波に翻弄されながらも生き抜いた人物の生き様は、私たちに多くの教訓を与えてくれるでしょう。刀剣の歴史に興味がある方々にとって、鈴木三樹三郎の物語は非常に興味深い題材となるに違いありません。