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公開日:2024/09/25  

幕末・明治に活躍した政治家、勝海舟の愛刀とは?

勝海舟の愛刀とは
勝海舟は幕末に活躍した政治家として有名ですが、実は剣術にも秀でた剣豪でもありました。武士であり政治家でもある、そんな彼の愛刀をご紹介します。

勝海舟の生涯

勝海舟は江戸本所で旗本の子として生まれ、貧しい少年時代を過ごしながら剣術に励みます。結婚後も生活は苦しく、餅を拾い集めて捨てたエピソードが有名です。1850年に蘭学塾を開設し、「海防意見書」を幕府に提出し、海防掛に任命されます。1860年には咸臨丸艦長として太平洋を横断。1868年には江戸無血開城を実現させます。明治維新が成った後も旧幕臣の代表格として数々の要職を歴任、伯爵に叙されました。晩年は赤坂氷川で暮らし、多くの書物を執筆する一方、徳川家の歴史編纂を阻止するような活動も行ったとされています。

勝海舟と刀

幼少期から直心影流(じきしんかげりゅう)の島田虎之助に師事し、その結果、直心影流の免許皆伝にまで達したと言われています。島田虎之助は「幕末の三剣士」の一人で、勝海舟は彼のもとで厳しい修行を積み重ねました。

勝海舟の愛刀「水心子正秀」と「海舟虎徹」

勝海舟には「水心子正秀(すいしんしまさひで)」や「海舟虎徹(かいしゅうこてつ)」という有名な愛刀があり、特に「海舟虎徹」は徳川慶喜から贈られたとされています。これらの刀剣は、彼の剣術の歴史とともに、彼がどれほど刀剣に深い愛着を持っていたかを象徴しています。

水心子正秀

水心子正秀は、江戸時代後期の刀剣界に大きな変革をもたらした名工です。彼は出羽国(現在の山形県)で生まれ、本名を「川部儀八郎」といいます。幼少期に父親を失った後、母親の実家で鍛冶の基礎を学び、やがて刀鍛冶としての道を歩むことを決意しました。彼は武蔵国八王子で「宮川吉英」に師事し、刀工としての技術を磨きます。また、水心子正秀は「刀剣復古論」を提唱し、古刀の時代に戻るべきと主張しました。この理論は、反りが深く、実戦に適した刀剣を作ることを目的としており、多くの刀鍛冶たちがこの思想に賛同しました。結果として、日本刀は復古の方向に進化し、実用的な刀が再び主流となりました。

海舟虎徹

本打刀は、江戸時代の名工「長曽祢興里」(ながそねおきさと)が作ったもので、新刀第一の作品とされています。この刀は「海舟虎徹」とも呼ばれ、勝海舟が愛用していたことが由来です。当時、虎徹の刀は非常に人気が高く、偽物が多く出回っていました。そのため「虎徹を見たら偽物と思え」とまで言われることがありました。正真作は庶民の手に届かず、尾張徳川家井伊直弼のような名門のみが所有していました。勝海舟は、江戸城無血開城の立役者であり、この刀が彼の手に渡った経緯は不明ながら、徳川慶喜から贈られた可能性が考えられています。

まとめ

勝海舟は、政治家でありとしても活躍した幕末の偉人です。彼の剣術や蘭学の背景、そして愛刀の歴史を知ることで、刀剣の世界に興味を持つ方が増えることでしょう。

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