平安時代(延暦13年(794年) – 12世紀末)は、日本の歴史における一時代です。延暦13年、桓武天皇が平安京(現在の京都市)へ都を遷し、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間がこの時代に該当します。この時代、平安京は日本の政治の中心地として機能しました。一方で、広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都から数えて約400年間を平安時代と見なす場合もあります。
歴史的背景
日本刀が直刀から反りのある湾刀へと変化したのは、平安中期以降、特に10世紀前半の承平・天慶の乱以降とされています。それ以前の直刀は「上古刀」と呼ばれ、大陸から伝わった様式でした。平安中期以降、日本刀は戦闘様式の変化に伴い、実用性を高めるために改良され続けました。特に、大和国、備前国、山城国、相模国、美濃国を中心に優れた刀工が活躍し、これらの技法は後に「五ヶ伝」と呼ばれます。この時代、日本刀の始祖とされる「天国(あまくに)」や山城伝の祖「三条宗近」など、多くの名工が登場し、高貴で優雅な刀を作り上げました。この時代は、日本刀の誕生と発展の基盤を築いた重要な時期でした。
天国(あまくに)
天国は奈良時代または平安時代に活動したとされる伝説的な刀工、またはその製作と伝えられる刀を指します。しかし、天国の実在は確認されておらず、その作刀も伝承の域を出ません。代表的な伝承として「小烏丸」が挙げられ、『観智院本銘尽』の記録では、平家の宝刀として天国が作者とされています。現在、小烏丸とされる太刀は「大和国天国御太刀」であり、明治15年に宗重正から明治天皇へ献上されました。この刀は無銘ですが、天国作と伝えられています。製作年代は奈良時代ではなく、日本刀が反りを持ち始めた平安中期と推定されています。この御太刀は宮中祭祀で使用され、新嘗祭では山城国国綱御太刀(鬼丸)とともに役割を果たします。
安綱(やすつな)
安綱(やすつな、生没年未詳)は平安時代後期(12世紀)に伯耆国で活動した刀工で、大原安綱や大原五郎太夫安綱とも呼ばれています。本名は横瀬三郎太夫とされ、作風は腰反りが高く優美で、古備前物に比べて先の伏ごころが控えめな姿が特徴です。鍛えは板目が肌立ち、地景や地斑を交えた地沸が強く、刃文には小乱れを基調に小互の目や小のたれが交じる豊富な働きを見せます。代を重ねるごとに作風は豪壮になったとされます。安綱の代表作である「童子切安綱」は天下五剣の一つで、「日本刀の東西の両横綱」として名高い名刀です。この刀は、源頼光が酒呑童子を討った伝説にちなみ名付けられました。『享保名物帳』にも名物刀として記録され、佐藤寒山は童子切を安綱作の中でも最高傑作と評価しています。
国永(くになが)
五条国永(ごじょうくになが)は、平安時代末期に山城国(現京都府)の五条で活躍した刀匠で、三条派に属します。三条在国(または有国)の子や五条兼永の弟、もしくは子と伝えられ、名作「鶴丸国永」の作者として知られます。五条国永の作風は直刃調に小乱や小丁子を交え、小沸が厚くつき、金筋が入り、地鉄の健全さと腰反りのある優美な太刀姿が特徴です。この作風は鎌倉時代初期の時代性を示しています。名物「鶴丸国永」は、保元の乱(1156年)のころ村上太郎長盛が所持しており、後に北条家、織田信長、伊達家を経て、最終的には明治天皇に献上されました。現在は御物として保存され、銘は「国永」と二字で刻まれています。鞘には村上源氏の家紋である竜胆が施されており、「竜胆丸」とも呼ばれた逸品です。
まとめ
平安時代には、日本刀の原型となる「太刀」が誕生しました。太刀は片刃で反りがあり、戦闘様式の変化に対応する形で進化しました。徒歩戦から馬上戦への移行により、武士たちは抜刀しやすく、斬撃や刺突に適した反りのある太刀を必要としました。その形状は長寸で反りが深く、細身で優雅な姿を持ち、小鋒や直刃・乱刃といった刃文が特徴です。また、刀剣の製作には良質な砂鉄が使用され、刀工たちは砂鉄が豊富な地域に集まり、「大和伝」「山城伝」「備前伝」の三箇伝を形成しました。これにより、日本刀の技術と流派が発展し、武士用の実戦的な「毛抜形太刀」や、貴族が持つ装飾性の高い「飾剣」が生まれました。この時代の日本刀はその美しさと実用性を兼ね備えた工芸品として、今日も多くの人々を魅了しています。