稲葉江(いなばごう)は、日本刀の中でも国宝に指定されている名刀の一つです。「江」とは、越中国(現在の富山県)松倉郷の刀工・義弘の作を指し、室町時代末期頃から「江」と表記されるようになりました。義弘の刀剣には銘がないものの、古くから相州正宗の門人と伝えられ、その技量は最高峰とされています。
概要
稲葉江(いなばごう)は、南北朝時代に作られた日本刀(打刀)であり、国宝に指定されています。現在は山口県岩国市の公益財団法人柏原美術館が所蔵しています。この刀剣は「稲葉郷」とも呼ばれ、南北朝時代の名工・郷義弘による作品とされています。
郷義弘は、越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)に住んでいたとされ、その名から「郷」、または同音の「江」とも称されました。また、一説には義弘の本姓が大江氏であり、その一字を取って「江」を用い、後に「郷」に転じたともいわれています。義弘は相州正宗の流れを汲む正宗十哲の一人であり、その作刀は地刃ともに明るく冴えわたると高く評価されています。しかし、在銘の作品が存在せず、本阿弥家の極めや伝承によって義弘作とされるものがほとんどです。その希少性から「郷とお化けは見たことがない」とも言われています。
名前の由来
稲葉江の名称は、西美濃三人衆の一人である稲葉良通の子・重通が所有していたことに由来します。もともとは長大な太刀でしたが、1585年(天正13年)に本阿弥光徳によって磨上(刀身の長さを短く仕立て直す加工)が施され、金象嵌銘が刻まれました。この金象嵌銘は、指裏に「天正十三十二月日江本阿弥磨上之(花押)」、指表に「所持稲葉勘右衛門尉」と記されています。
しかし、刀剣研究家の福永酔剣によれば、重通は同年7月13日に兵庫頭を受領しており、もし彼の佩刀であれば「稲葉兵庫頭」と記されるはずだと指摘されています。実際には、勘右衛門の通称名を受け継いだ五男・道通の所持品である可能性が高いとされています。この金象嵌銘は埋忠家によって施され、「埋忠銘鑑」に押形が残されています。また、その後、中心先が約2.1cm詰められたことが確認されています。
さらに、稲葉江の金無垢の鎺(はばき)には「白銀屋 村上源左衛門」と刻まれており、日本刀の歴史的価値を示す重要な刀剣の一つとして伝えられています。
刀の来歴
稲葉江は、稲葉重通(または道通)が所有していたものの、徳川家康の要望により500貫で召し上げられました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、家康は当初、会津の上杉景勝を討つため東へ進軍していました。しかし、石田三成の挙兵を知り、下野国小山で反転。上杉軍の抑えとして次男・結城秀康を宇都宮に残すにあたり、彼を激励するため、具足や軍配とともにこの日本刀を授けました。
戦後、秀康は越前北ノ庄藩を与えられ、後に松平姓へ復姓。本作はその子・忠直、さらに孫の光長へと受け継がれました。光長の時代には、奇才の刀工・大村加卜が高田藩に仕えており、彼が本作を実見し、その押形を『剣刀秘宝』に収めています。この書には、本阿弥光温が「日本に一つ二つの道具」と評したことや、鋩子の上に金輪があるが一枚鋩子であるため判然としないことが記されています。
戦後もこの名刀は津山松平家に伝わりましたが、1933年に重要美術品、1936年には旧国宝に指定。その後、津山松平家を離れ、中島飛行機の社長・中島喜代一の所有を経て、1951年に文化財保護法のもとで国宝に認定されました。指定名称は「刀 金象嵌銘天正十三十二月日江本阿彌磨上之花押 所持稲葉勘右衛門尉(名物稲葉江)」です。
作風
この日本刀の刃長は70.9センチメートル、反りは2.0センチメートル、元幅は2.9センチメートルです。鍛えは小板目が緻密に詰まり、地沸(じにえ)が細かく厚くついており、全体的に明るく冴えた地肌を持っています。
刃文は小湾れ(このたれ)に互の目(ぐのめ)が交じり、足が入り、匂いが深く小沸がよくついています。また、所々に砂流しが見られ、ほつれのような特徴も確認できます。焼幅は広く、特に物打から上部にかけて大模様に乱れ、華やかな印象を与えます。
帽子は乱れ込み、一枚帽子となり、切先にかけて大きく下がる特徴的な造りです。刀身には力強い棒樋が掻き流され、全体的に重厚な雰囲気を持っています。大磨上げが施されており、茎には金象嵌銘が刻まれています。鎬造り・庵棟の形状を持ち、身幅が広く、鋒が伸びた堂々たる刀剣です。
まとめ
稲葉江(いなばごう)は、南北朝時代に作られた国宝の日本刀で、山口県岩国市の柏原美術館に所蔵されています。「稲葉郷」とも呼ばれ、刀剣愛好家の間で広く知られています。製作者は越中国(現在の富山県)の義弘で、相州正宗の弟子と伝えられています。義弘の作には銘が入っていませんが、稲葉江はその代表作とされています。
昭和11年(1936年)に旧国宝指定を受け、戦後は中島飛行機(現SUBARU)の社長・中島喜代一の所有となります。1951年に国宝に指定されましたが、後に所在不明となり、2016年にようやく発見されました。2019年、カシワバラ・コーポレーションが購入し、柏原美術館に寄贈。現在は折に触れて公開され、多くの刀剣愛好家がその姿を目にする機会を得ています。