会津新藤五(あいづしんとうご)は、鎌倉時代に作られた日本刀の一つで、短刀として知られています。相模の名工・新藤五国光による作刀で、その最高傑作とも称されます。文化財名称は「短刀〈銘国光(名物会津新藤五)〉」で、日本の国宝に指定されています。現在は広島県福山市のふくやま美術館に所蔵されており、享保名物帳にも記録されています。
概要
新藤五国光が鎌倉時代に相州鎌倉で制作した短刀は、刀剣の歴史において重要な位置を占めています。彼は京都粟田口派の粟田口国綱の子とされるのが一般的ですが、一説には国綱の孫、あるいは備前三郎国宗の子とも言われています。また、国綱と国宗の両名に師事したという説もあり、その出自や修行の経緯には諸説存在します。
京都国立博物館の主任研究員・末兼俊彦氏によると、国綱と国宗は鎌倉に招かれて活動していたため、国光が両者の技術を学んだ可能性は高いと考えられています。鎌倉鍛冶として名を馳せた国光は、日本刀の五ケ伝の一つである相州伝を確立した人物であり、特に短刀の作刀に優れ、その完成度の高さは粟田口吉光と並ぶと評されています。
名前の由来と刀の来歴
会津新藤五という名称は、安土桃山時代に会津を治めた蒲生氏郷が所持していたことに由来します。江戸時代中期、徳川8代将軍・徳川吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀目録『享保名物帳』によれば、この刀剣は氏郷の孫・忠郷の代まで蒲生家に伝わり、その後家臣の森川半弥へと渡りました。
森川家からは前田利常が金百枚で購入し、1702年(元禄15年)4月、徳川5代将軍・徳川綱吉が前田邸を訪れた際に郷義弘の刀とともに献上されました。その見返りとして、前田家には正宗や吉光の刀が下賜されたといわれています。また、鞘書には「智幻院様御指之内」とあり、1707年(宝永4年)に生まれた6代将軍・徳川家宣の子・家千代の守刀であったことが判明しています。昭和8年(1933年)1月23日には旧国宝に指定され、徳川家達氏が所蔵していました。
作風
この刀剣は、平造りで三ツ棟、反りが深い造りが特徴です。刃長は25.5センチメートル、元幅は2.48センチメートルで、内反りの形状を持ちます。刀身には「国光」の二字銘が刻まれ、茎(なかご)は生ぶで先が栗尻(くりじり)、鑢目(やすりめ)は勝手下がり、目釘孔は一つ設けられています。
鍛えは、小板目を基調とし、杢目が交じる精緻な地鉄が特徴です。地沸が厚く、美しい地景が多く見られ、刀剣としての完成度の高さが伺えます。刃文は匂口が深く、冴えた直刃が焼かれ、焼出しはやや細く、上部に向かって広がる独特の作風となっています。また、刃中には金筋が頻繁に交じり、刃文の変化が豊かであることが評価されています。帽子は小丸でやや深く返り、繊細ながら力強い美しさを備えています。
まとめ
会津新藤五は、鎌倉時代の刀工・新藤五国光による短刀で、日本刀の中でも最高傑作と称されています。国光は細身の直刃を得意とし、焼幅の広い直刃にも優れた技量を発揮しました。本作は『享保名物帳』に記載される名品で、地刃の健全さと力強さを兼ね備えた刀剣です。
この短刀は、安土桃山時代の会津領主・蒲生氏郷が所持していたことから「会津新藤五」と呼ばれました。その後、蒲生家から森川半弥を経て前田利常へと渡り、1702年には徳川綱吉に献上されました。以降、徳川将軍家に伝わり、江戸時代から明治維新を経て、1933年に旧国宝に指定されました。
戦後、所有者が変遷しながらも、1951年に新国宝に指定。1970年には日本美術刀剣保存協会の管理下に入り、直近ではエフピコ創業者・小松安弘氏が所蔵していました。2007年から福山市のふくやま美術館に寄託され、2018年に小松家から正式に寄贈されました。現在は同館の収蔵品として、多くの刀剣ファンに親しまれています。