新選組とは、局長の「近藤勇」美少年で有名な「沖田総司」など名だたる剣客が集い、明治という時代を駆け抜けた集団です。そのなかでも五番隊組長・武田観柳斎は、ひときわ異彩を放っていました。その武田観柳斎が愛用していた刀とは?あわせて武田観柳斎の生涯について解説していきます。ぜひ参考にしてください。
五番隊組長「武田観柳斎」とは
冒頭でふれた、近藤勇や沖田総司はとても有名で知らない人はいないほどの存在です。
しかし「武田観柳斎」の名はどうでしょうか?それでは少し紹介いたします。
武田観柳斎はどのような人物
武田観柳斎は生まれ年や家紋は不明で本名は福田廣、1867年7月23日(33歳)に新選組の手によって暗殺された、元新選組の五番隊組長です。
出身は現代の島根県である出雲で、頭がよく医学生であったとされています。
北辰一刀流の剣客であり、脱藩して江戸に出てきました。その後は甲州流軍学を学び甲斐武田氏にちなんで、名を武田観柳斎としています。
武田観柳斎の新選組での役割
文武両道で知られる武田観柳斎は、新選組局長でもある近藤勇に気に入られていたそうです。
29歳で新選組に参加してからは、主に軍事方として池田屋事件や禁門の変で活躍しており、副長助勤や5番隊組長にまでなっている実力者です。
総勢200名を超える新選組で隊長にまでなり、軍司としても活躍した武田観柳斎は新選組にはなくてはならない存在だといえるでしょう。
武田観柳斎に同性愛者のうわさも
武田観柳斎には、同性愛者のうわさもありました。
新選組では戦いで気が散るのを防ぐために、もし隊士が妻帯者だったとしても近くに妻を住まわせることを許しませんでした。
そのような理由から女人禁制で男だけの組織であった新選組では、いつの間にか同性愛が流行りになったようです。
武田観柳斎も同性愛者の一人で、新選組「隊中美男五人衆」の一人、16歳の馬越三郎にぞっこんだったとされています。
しかし、まったくその気の無い馬越三郎は、しつこく言い寄ってくる武田観柳斎に嫌気がさし、土方歳三に相談していたようです。
「誠」の文字を背負い、京都の治安維持のため必死で戦う隊士のなかで、このような悩みは御法度です。
この件では新選組局長の近藤勇も難色を示していたようです。馬越三郎に目撃、密告された結果、暗殺にいたったのも自業自得のような気もします。
武田観柳斎の愛刀「越前住常陸守兼植」
初代の兼植は本国の美濃関、同族の兼法らと一緒に越前国の豪族朝倉氏に招かれ越前一乗谷に住むようになります。
二代目の兼植は加賀での作刀があり、武田観柳斎の愛刀で知られる「越前住常陸守兼植」は三代常陸守兼植によって作刀されたもので手持ちが重く、タフで地刃の出来も良いとされており、刃味にも定評がある業物としてしられています。
長さは二尺二寸五分で池田屋事件後には六つの刃こぼれがあったとされています。
武田観柳斎の功績と転落
新選組5番隊組長の武田観柳斎がどのような人物だったのか、愛刀は何なのかなど簡単に説明してきました。
この項目では5番隊組長、副長助勤まで上りつめた武田観柳斎の功績と転落について深堀していきます。
武田観柳斎の功績とは
生まれが出雲国の武田観柳斎は頭が良く医学生であったようです。
江戸に出てきてから甲州流軍学を学び、その後、新選組に29歳で参加しました。
もっとも有名なエピソードでいうと1864年6月の池田屋事件で、古高俊太郎を捕縛し、尊王攘夷派志士の不気味な行動を察知したことです。
まっ先に近藤班と現場に駆けつけ、その活躍をかわれたことで、二十両の褒賞金を受けています。
また同年7月には禁門の変で戦略担当幹部として天王山攻略にも成功し、甲州流軍学の実力をいかんなく発揮しています。
武田観柳斎が転落した理由とは
武田観柳斎の転落のきっかけは、時代の流れによるものではないでしょうか。
当時、新選組がフランス式調錬をとり入れたことにより、武田の軍学が時代遅れになりつつありました。
それに加え、新幹部の伊東甲子太郎の影響が大きくなったことで、存在感がさらに薄くなったといえます。
そのころから倒幕思想にのめり込んでいき、近藤勇に伝えた後に新選組を脱退しています。
理由は諸説ありますが、新選組のなかでも武田はあまりよくは思われていなかったとされています。
近藤勇や土方歳三ら上級隊士には媚びていたらしいのですが、自身以下の隊士には嫌味を言う性格だったようです。
そのような媚へつらう性格が仇となったのか、最終的には新選組の手によって暗殺されてしまいました。
暗殺の理由も不確かですが、現代では勤皇活動ではないかと推測されています。
新選組の馬越三郎が薩摩藩に出入りする武田観柳斎を目撃し、近藤勇に密告したことが、暗殺の決め手になったという説もあるようです。
まとめ
この記事では、新選組五番隊の武田観柳斎の愛刀や、あわせてどのような人物であったのかなどについて簡単に解説してきました。文武両道であったため、局長近藤勇に重宝されていたほどの実力者です。その一方では、時代に少しずつ取り残され居場所を失うなどの悲運もあったとされています。諸説あるにせよ、あまりよい噂が少ない人物のようですが、新選組での功績は今でも語り継がれていることは確かです。この記事が武田観柳斎をより知るきっかけになれば幸いです。