日本刀の買い取りを希望している人は、切れ味が買い取り時の価格に影響することを知っているでしょうか。日本刀は国内問わず海外でも人気があり、観光に来た外国客のなかには母国に持って帰る人も数多くいるほどです。この記事では、日本刀の刀工の格付けを一覧に納めた書物「懐宝剣尺」や、当時の銘刀「長曽祢虎徹」について詳しく紹介します。
切れ味ランキングをまとめた「懐宝剣尺」
当時の日本刀の切れ味を確かめられる書物に、懐宝剣尺(かいほうけんじゃく)があります。懐宝剣尺は、日本刀の切れ味を刀工ごとに評価して格付けしたものを一覧に納めたものです。寛政9年(1797年)に遠州浜松藩士であった拓植平助(つげへいすけまさよし)によって発表されました。
刀の切れ味については、試し切り役を務めていた山田朝右衛門吉睦(やまだあさえもんよしむつ)と須藤五太夫睦済(すどうごだゆうむつずみ)2人の知見を参考にし、切れ味の視点で次の4つのランクに分けたのです。
ひとつ目は、最上大業物(さいじょうおおわざもの)となっています。数ある日本刀の中でも、とくに優れた切れ味のものです。
2つ目は大業物(おおわざもの)で、最上大業物に次いだ優れた切れ味だと評されています。
3つ目は良業者(よきわざもの)で、大業物に次いだ切れ味のものです。
最後が業物(わざもの)で、最上大業物や大業物、良業物に次ぐ切れ味といわれています。
懐宝剣尺には、前述の4つにランク付けされたもの以外にも、大業物・良業物・業物混合の刀工も記されているようです。ただし、懐宝剣尺は後の文化2年に編集して再版され、その後の文政13年には大幅に加筆されて古今鍛冶備考(ここんかじびこう)として発表されています。その都度格を訂正したり刀工を追加したりしているため、それぞれで数に相違があるようです。
当初の懐宝剣尺では最上大業物は12工、大業物は21工、良業物は50工、業物は80工、大業物・良業物・業物混は65工で合わせて228工でした。しかし、後の2回の再販物を合わせると、最上大業物は15工、大業物は21工、良業物は58工、業物は93工、大業物・良業物・業物混合は68工、すべてで255工となっています。
罪人の遺体で切れ味を確かめていた
当時は日本刀の切れ味を、罪人の遺体を実際に切って確かめていました。試し切りといわれています。試し切りは一度に何体切れるかを確かめ、一体の遺体ならば一つ胴・二体の遺体ならば二つ胴・三体の遺体ならば三つ胴といったように刀の銘(めい)を決めました。その結果を、刀工の名や作られた日などと共に、刀のなかごに刻んだのです。なかごとは、刀身の握る箇所におおわれる部分を指します。
試し切りは、土壇(どだん)と呼ばれる土を盛った檀に何本かの竹の棒を立て、その竹の間に両手をあげた状態の遺体を横向けに乗せて固定して切っていました。歴史上の試し切りで一番多くの数を切った日本刀は、七つ胴落とし兼房(ななつどうおとしかねふさ)です。7つの遺体を同時に切ったのですが、「その厚さを一体どのようにして切ったのか」と疑問に思う人もいるでしょう。試し斬り役が、はしごに登って飛び降りるように切ったようです。
最上大業物に選ばれた「長曽祢虎徹」
長曽根虎徹(ながそねこてつ)は懐宝剣尺で最上大業物にランク付けされている日本刀であり、新選組局長の近藤勇が所持していたとされています。作り手は長曽祢興里(ながそねおきさと)で、長曽祢興里は入道して虎徹と名乗っているのです。「今宵の虎徹は血に飢えている」という台詞を知っている人もいるのではないでしょうか。
長曽根虎徹は鉄が柔らかいうえに反りが浅く、地鉄は鍛えが強くて鍛え肌が木の年輪のように見える、もくめはだが特徴的です。長曽祢虎徹の名刀ぶりを語るエピソードに、池田屋事件があります。池田屋事件は、1864年(元治元年)に起きた尊王攘夷派(そんのうじょうい)の志士たちの反乱を、新選組が食い止めた事件です。
20人ほどの尊王攘夷派志士を当初の新選組は、近藤勇・永倉新八・沖田総司・藤堂平助の4人で襲撃しました。沖田総司と藤堂平助が負傷したことから、援軍が到着するまで近藤勇と永倉新八の2人で応戦したそうです。その乱闘のなかで永倉新八の刀は折れてしまいましたが、近藤勇の持つ長曽祢虎徹は折れるどころか曲がりもしなかったといわれています。
しかし、近藤勇が所持していた長曽祢虎徹は贋作だったという説もあるのです。当時虎徹の刀は非常に人気が高く、贋作が多く出回っていたうえに大変高価なものだったことと、近藤勇の所持していた刀は無銘だったことから、そのような説も流れています。本物だったのか偽物だったのかは、現存していないため現在も謎のままです。
日本刀の切れ味を刀工ごとに評価して格付けした書物、懐宝剣尺と最上大業物に選ばれた銘刀長曽祢虎徹について紹介してきました。当時は日本刀の切れ味を確かめるために、罪人の遺体を実際に切る試し斬りが行われていたのです。試し斬りは現代では考えらないことでしょう。しかし先人が切れ味を試して書物を残したことで、現代人は刀の切れ味を知ることができるのです。