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公開日:2024/10/07  

「維新の三傑」・薩摩の偉人、西郷隆盛の愛刀は?

西郷隆盛の愛刀は
大きな趣味の1つとして刀剣収集をしていたとも言われる、西郷隆盛の愛刀をご紹介します。

西郷隆盛の生涯

西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の長男として生まれ、幼少期から大久保利通と交流がありました。13歳のときに負った傷が原因で武道を諦め、学問に専念し、仲間からの信頼を得ました。27歳で島津斉彬に従い江戸に向かい、斉彬の側近として活躍しますが、斉彬の死後は一時的に失意に陥ります。その後、幕府に追われる中、奄美大島や沖永良部島に流されましたが、大久保利通の助けもあり、薩摩藩に復帰します。倒幕運動では薩長同盟を成立させ、戊辰戦争では江戸城の無血開城に貢献しました。明治政府には参加を断っていましたが、大久保利通らの説得により加わります。しかし、政変により政府を去り、最後は西南戦争で敗北し命を落としました。

来国行(らいくにゆき)

1873年(明治6年)の政変で下野した西郷隆盛は、旧薩摩藩士の得能良介に「来国行」という刀を贈っています。この刀は、長さ二尺四寸余りのもので、西郷が愛用していたことが伝えられています。西郷隆盛は他にも、親しい関係にあった人物たちに日本刀を贈ったエピソードが複数残されています。刀剣を通じて、彼の人間関係や信頼を象徴する行為として、その贈答は非常に重要な意味を持っています。「来国行」もその一つとして、彼の信念と結びついた逸話として語り継がれています。

信国(のぶくに)

西郷隆盛が西南戦争で最期を迎えたときに持っていた刀が「信国(のぶくに)」です。信国は三代目信国の作であり、もとは長い刀でしたが、後に短く切られたとされています。さらに、鞘も明治時代にサーベルの拵えに作り替えられました。この刀は西郷の最期の象徴でもあり、彼が自刃した城山に建てられた軍服姿の西郷隆盛像が持っている刀も「信国」をモデルにしていることで有名です。このように、「信国」は西郷の人生と強く結びついた刀剣の一つとして知られています。

村正(むらまさ)の短刀

西郷隆盛が徳川家討伐を意識して所持していたとされる「村正」。彼は、村正の大小を持っていたと伝わりますが、打刀(大)の方は偽物であったといわれています。村正の刀が非常に評価され、江戸時代には入手が困難だったためです。しかし、小刀正真の村正作であり、西郷はその短刀を所持していました。目釘孔が3つあり、1つは四分の一埋められた状態の特徴的な刀です。

小烏丸(こがらすまる)小烏造りの刀

三条実美という公家から西郷隆盛に贈られた「小烏丸(こがらすまる)」は、小烏造りの刀で、”西郷隆盛所持刀“と朱銘されています。三条実美は明治維新後、太政大臣を務めるなど明治政府において重要な役割を果たした人物であり、その彼から贈られたこの刀も、西郷の信頼や友情を象徴する一振りです。

手掻包永(てがいかねなが)

手掻包永」は、西郷隆盛が所有していた愛刀の一つで、長さ2尺3寸6分5厘(71.5cm)、反り七分三厘の太刀です。西南戦争の後、弟である従道によって明治天皇に献上されました。現在、この刀は東京国立博物館に所蔵されており、西郷の所持刀の中でも特に歴史的価値の高い一振りとして知られています(2018年10月現在)。

長篠一文字(ながしのいちもんじ)

長篠一文字」は備前福岡一文字派による作品で、国宝に指定されています。織田信長が所有していたことでも知られていますが、長篠の戦いで武田軍を撃退した奥平貞昌に与えられ、その後、奥平家に伝えられました。明治時代には西郷隆盛がこの刀を購入し、本阿弥成重に研ぎ直しを依頼しています。後に山縣有朋の手にも渡ったとされています。

雲次(うんじ)

雲次」は備前鵜飼庄の刀工・雲次作で、1868年1月7日に西郷隆盛が最後の薩摩藩主である島津忠義から拝領したと伝えられる日本刀です。この刀は、目釘孔が3つあり、特徴的な彫り物を持っています。現在、大阪歴史博物館に所蔵されており、大阪府の指定文化財に登録されています(2018年10月現在)。

志津(しず)

志津」は、濃州志津三郎兼氏の作で、西郷隆盛がある藩主から譲り受けた刀です。この刀の外装は西郷隆盛自身が作らせたものとされ、後に薩摩藩士の辺見十郎太が受け継ぎました。西南戦争でも使用されたとされ、勇猛な薩摩藩士としての象徴となっています。

まとめ

西郷隆盛は歴史的な大人物であり、その生涯は日本の近代史に大きな影響を与えました。彼の愛刀である「来国行」や「信国」、「村正」などは、彼の人物像や倒幕運動との関わりを象徴しています。また、これらの刀剣は今も日本刀の歴史や文化の一部として、買取市場でも価値が高いとされています。刀剣や日本刀に関心を持つ人々にとって、西郷隆盛が所持していた名刀の数々は、歴史的価値とともにその魅力を語る重要な要素となっています。

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