戦国時代、名刀を持つことは有力武将のステータスとされていました。各地の権力者のもとには多くの名刀が集まり、戦国時代を天下統一へと導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3名は名刀中の名刀を数多くコレクションしていた熱心な愛刀家としても有名です。彼らを中部地方では三英傑と呼んでいます。
織田信長
尾張国(現在の愛知県西部)出身の織田信長。幼少期は奇抜な服装や言動から「尾張の大うつけ」と呼ばれていましたが、室町幕府を倒し、長篠の戦いで武田家を撃破するなど、徐々に武将としてのカリスマ性を発揮していきます。「鳴かぬなら殺してしまえ…」の句でも知られる激情型の性格は、刀剣とのエピソードにも垣間見ることができます。
信長と、権力の象徴としての刀剣
織田信長の愛刀としてもっとも有名なのは「義元左文字」です。「義元左文字」は織田信長が桶狭間の戦いにおいて、今川義元を打ち破った記念に奪った刀として知られており、その後も豊臣秀吉、徳川家康と三英傑に代々受け継がれた名刀中の名刀でもあります。1783年(天明3年)の大火事で一度は焼けてしまいますが、焼き直され、今でも織田信長を神格として祀る建勲神社に大切に保管されています。
戦利品として奪い手に入れた「義元左文字」とは対照的に「津田遠見長光」は織田信長の手から奪われ、現代まで受け継がれた刀です。鎌倉時代に作られたとされ、今も愛知県の徳川美術館に所蔵されています。
「津田遠見長光」は、1582年(天正10年)の本能寺の変によって明智光秀の軍勢が安土城を攻め落とした際に収奪され、その後は何人もの所有者を転々とした後に徳川家に伝来しています。まさに織田信長の壮絶な最期を知る名刀といえるでしょう。
豊臣秀吉
豊臣秀吉は尾張国愛知郡中村郷(現在の愛知県名古屋市中村区)に、足軽の息子として誕生しました。草履取りなどの雑用係として織田信長に仕え始め、戦場の策士として高い功績を挙げることで信頼を得ていきます。本能寺の変で討伐された織田信長の仇として明智光秀を討ち、後継者として主君が果たせなかった天下統一を実現しました。
秀吉と、文化としての刀剣
豊臣秀吉は織田信長とは対照的に、力で奪い奪われる戦い方ではなく、兵糧攻めや水攻めのように相手を攻め落とす戦い方を好む武将です。農民という出自からも伺える「戦わずして勝つ」と呼ばれたその戦術は、無類の刀剣コレクターであったプライベートとは実に対照的です。
秀吉は全国各地の名刀を収集し、その中でも正宗、義弘、吉光などの名工達が打った刀をこよなく愛して「天下三作」と呼んでいました。
正宗や吉光の作だけでも十数振以上所有していたといわれていますが、豊臣秀吉が名刀の中でもとくに気に入った刀だけを保管していた「一之箱」に納められていたのが、吉光が作った「一期一振」です。「生涯で一度きりの太刀」という意味で命名し、刀を戦うための道具ではなく、その技巧を愛でるための文化として愛していたようです。
徳川家康
1542年(天文11年)に、三河国(現在の愛知県東部)に誕生した徳川家康は、今川義元の人質として幼年時を過ごしました。その後も今川義元を討った織田信長に従属しますが、信長の死後は家臣の助けを借りながら徐々に戦乱の世で頭角を表していきます。豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで豊臣派を討つことで、1603年(慶長8年)、朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を成立させます。
家康と、贈答品としての刀剣
武芸の達人で、剣豪だったといわれる徳川家康も、天下人として数多くの名刀を所有していました。徳川家康の愛刀として有名なのが「日光助真」です。「日光助真」は徳川家康の息子である頼宣が、加藤清正の娘である八十姫と婚約した際に、加藤清正から徳川家康へと献上された刀です。
刀が大量生産されていた戦国時代、名刀は外交や人脈を結ぶためのきっかけとなる、重要な贈答品でもありました。人質から始まった家康の人生が、天下人という地位にまで昇りつめた大逆転を収めたのには、人脈や家臣の信頼に恵まれたからと言わざるを得ません。
そのコレクションの中には、天下人に成り上がるまでの外交や人脈を繋いだ贈答品としての名刀も数多く所有していたと考えられます。「日光助真」は家康の死後、徳川家康を祭神として祀る日光東照宮に神宝として納められています。
いかがでしたでしょうか。この記事では、天下統一を果たした戦国三英傑の紹介と、その愛刀について紹介しました。単に刀剣コレクターといえど、その愛で方は三者三様です。刀剣との向き合い方から、性格も戦術も異なる戦国三英傑の人物像を、さらに深く思い描くことができるのではないでしょうか。
また、そのエピソードから、戦国時代ではいかに刀剣が魅力的で、歴史上に重要な役割を担っていたかということも、容易に想像することができるのではないでしょうか。