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公開日:2023/01/01  

さまざまな伝説を持つ日本刀!不思議な逸話がある刀をご紹介!


神秘的な輝きを放つ日本刀は、長いときを経たなかで、多くの武士たちの手を通ってきました。すさまじい切れ味を誇る日本刀は武器としてだけでなく、信仰の対象でもあり、さまざまな伝説を残した日本刀も少なくありません。そこで今回は、思わず魅入られるような魅力を持つ名刀に秘められた、不思議な逸話について紹介します。

妖怪退治の逸話を持つ刀

まず初めは、妖怪を切った日本刀で、いずれも平安時代に作られた名刀です。

童子切安綱(どうじぎりやすつな)

童子切安綱は、京の大江山に住んでいた酒呑童子を斬った刀と伝わっています。洛中で若い女性が次々にさらわれる事件が相次ぎ、陰陽師・安倍晴明が占じたところ、大江山に住む酒呑童子の仕業だと分かりました。帝は源頼光に酒呑童子の討伐を命じます。頼光は家来の四天王、渡辺綱・坂田金時・平定道・平季武(すえたけ)とともに大江山に向かい、見事酒呑童子を退治しました。このときに酒呑童子の首を討ち取ったのが安綱という刀で、以後、童子切安綱と呼ばれています。安綱の切れ味はすさまじく、江戸時代に入って罪人の亡骸で試し斬りをした際には、重なった6人の遺体を斬り、その刃は下の台まで達したそうです。

鬼切丸

鬼切丸は、もともとは“髭切”と呼ばれ、源頼光が持ち主でした。ある夜、帰宅が深夜になった渡辺綱のために、頼光は髭切と馬を貸します。一条堀川にある戻橋にかかったところで、綱は美しい女性に呼び止められます。五条まで送ってほしいと頼まれた綱は、女性を馬に乗せて走りました。

しかし、綱は突然髷をつかまれ空中に浮かんだのです。その女性は実は茨木童子という鬼でした。綱は、鬼の手を刀で切断し、そのまま北野天満宮の境内に落下します。もちろん綱に怪我はありません。それ以来、髭切は“鬼切丸”と呼ばれるようになったということです。鬼切丸は、現在も北野天満宮に所蔵されています。

蜘蛛切

蜘蛛切も、もとは“膝丸”と呼ばれた刀です。膝丸と髭切は、実は同じ刀鍛冶によってつくられた兄弟刀でした。それぞれの名は、罪人の試し斬りをした際に、ひと振りは膝まで斬れたこと、もうひと振りは髭までも斬り落としたことが由来となっています。ある日、膝丸の持ち主であった源頼光が熱病にかかり臥せっていると、体に縄が巻き付けられています。頼光がそばに置いていた膝丸を振るうと怪しい気配は消え、血の跡だけが残っていました。

駆けつけた家臣の四天王が血の跡を追うと、北野天満宮の裏にあった塚で全長4尺(約1.2m)もある大蜘蛛が血を流して苦しんでいるではないですか。四天王が大蜘蛛にとどめを刺すと、頼光の病はたちどころに治ったのです。そして、膝丸は“蜘蛛切”と呼ばれるようになりました。その後、蜘蛛切は源為義、そして源義経へと譲られ、義経により“薄緑”と命名されます膝丸は、大覚寺に所蔵されています。

仇を討って無念を晴らした逸話を持つ刀

次に主君の無念を晴らした名刀を紹介します。

小夜左文字(さよさもんじ)

安土桃山時代の話です。暮らしが苦しかったために夫の形見である左文字という名刀を売りに行く途中だった妻が、小夜の中山という場所(現・静岡県掛川市)で山賊に殺され、刀も奪われてしまいました。残された息子は左文字を取り返し、母の仇を討つために掛川の研師に弟子入りします。あるとき、刀を研ぎに出しに来た浪人の話を聞き、彼の刀があの左文字だと気付きました。息子は左文字で見事母の仇を討ったのです。これを聞いた掛川藩主・山内一豊は、息子を召し上げ、家臣にします。息子は左文字を一豊に献上しました。小夜左文字という名は、一豊から刀をもらい受けた細川幽斎が名付けたものです。

微塵丸(みじんまる)・薄緑

微塵丸は、木曽義仲が持っていた刀で、源頼朝のもとへ人質として送った息子の無事を祈願して箱根権現へ奉納していました。その後仇討を決心した曽我兄弟が箱根権現に参拝した際、別当行実が兄弟の兄・十郎に渡しています。薄緑は、前述の蜘蛛切の別名ですが、兄・頼朝の不興を買った義経が関係の修復を願って箱根権現へ奉納していました。

そして、曽我兄弟の弟に渡っていたのです。2振りの名刀により、曽我兄弟は無事に仇・工藤祐経(すけつね)を討ち取りました。“薄緑:膝丸”その後頼朝の手に渡り、再び箱根権現へ奉納され、現在も薄緑丸という名の日本刀が、箱根神社にあります。前述の大覚寺、膝丸・薄緑とそれに個人所蔵の薄緑もあり、どれが本物であるのかは、定かではありません。

病気を治した逸話を持つ刀

大典太(おおでんた)

戦国の武将・前田利家の娘・豪姫が病にかかってしまいます。原因はまったく分からず、一向に回復しません。そこで、幼馴染で朋友の豊臣秀吉が、快癒祈願に秘蔵の大典太を利家に貸しました。大典太を豪姫の枕元のおいてみると、みるみる病が治ったのです。しかし、大典太を秀吉に返すとまた姫の病がぶり返し、再び大典太を借りると治る、その繰り返しが三度ほど続き、とうとう秀吉は大典太を利家に譲りました。以後、大典太は前田家の家宝となりました。現在は、国宝に指定され、前田家の文化財を保存・管理する前田育徳会が保有しています。

疱瘡正宗(ほうそうまさむね)

疱瘡とは今でいう天然痘のことで、平安時代の昔から多くの人が苦しみ、亡くなってきた病気です。今では根絶したとされる天然痘ですが、ワクチンや治療薬ができるまでは致死率が非常に高い怖い病気でした。江戸幕府8代将軍の徳川吉宗の嫡男で9代将軍となる家重が、この疱瘡にかかったとき、吉宗は、病気治癒を祈願して名工正宗が打った刀を贈ります。すると、病が全快したのです。その後10代から13代までの将軍が連続して疱瘡にかかっていますが、いずれも治っているとされています。このことから疱瘡正宗と呼ばれるようになりました。

幸運をもたらす逸話を持つ刀

最後は、持つものに幸運を運んでくるというラッキーな刀を紹介しましょう。

物吉貞宗(ものよしさだむね)

元は豊臣秀吉の所蔵だった短刀でしたが、秀吉がなくなった後、嫡男の秀頼が譲り受けます。そして関ヶ原の戦後の1601年に秀頼から徳川家康に贈られたとされています。家康がこの短刀を帯びて戦に出たときは、負け知らずだったことから、縁起がよいという意味を持つ“物吉”という言葉が加えられて物吉貞宗と名付けられました。

ソハヤノツルキ

ソハヤノツルキは大典太と同じ三池典太光世(みいけてんたみつよ)の作となる刀です。坂上田村麻呂が持っていた“楚葉矢の剣”を模したものといわれ、徳川家康愛用の日本刀でした。家康は死の直前「この刀の切っ先を西国に向け、久能算に納めるように」との言葉を遺しています。遺言どおり、ソハヤノツルキは久能山東照宮に納められました。そのおかげなのか、徳川幕府は260年以上の長きにわたり、政権を安定させたのです。ソハヤノツルキは現在も久能山東照宮に所蔵されています。

五虎退

五虎退は、鎌倉時代の名工・粟田口吉光の作となる短刀です。上杉謙信が上洛した際、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から拝領されたものでした。もともとは、足利義満の同朋衆が所持しており、彼らが遣明使として、中国へ派遣された際、5頭の虎に襲われましたが、この短刀で追い払うことができたことから五虎退という名がつけられました。五虎退は、現在も上杉家の所有で、米沢市にある上杉博物館に所蔵されています。

まとめ

今回は以上十振りの日本刀にまつわる逸話を紹介しました。信じられないような不思議な話が語り継がれる日本刀には、多くの人を魅了する引力のような力があるようです。それは、日本刀の奥深く恐ろしいくらいの冷ややかな光が、人の心に何かしらの影響を与えているからかもしれません。これからも日本人の魂に刺さるような素晴らしい日本刀をどうぞ愛してください。

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