江戸で生まれ、近藤勇の道場「試衛館」にて剣術を学び、生え抜きの同志として新選組に加入した藤堂平助は、血気盛んな若き新選組八番隊隊長であり、斎藤一と共に最年少の幹部でもありました。そして、一介の浪人でありながら上総介兼重というとても高価な名刀を持っていました。今回は藤堂平助の人柄とその刀について解説します。
新撰組八番隊組長「藤堂平助」とは
藤堂平助は勇猛果敢な性格であり、何事も真っ先に行動し、京都における新選組の任務、特に戦闘時においては、真っ先に斬りこんでいくその性格から「魁(さきがけ)先生」という異名が付いていました。
剣の腕前も北辰一刀流目録であり、沖田総司、永倉新八、斎藤一と並ぶ新選組の四天王とも称されています。さらに残されている数々の記録でも「美男」とされており、その容貌は京都でよほど有名だったのか、九州にまで伝わっています。
さらに剣だけではない文武に長けた、それでいて近藤勇からはよく「態度が悪い」と叱られる、粋な美男で血気早い江戸っ子だったようです。1864年の池田屋事件では20名を超える敵に対し、わずか4人で真っ先に斬りこんでいき奮戦、額に怪我を負って戦線離脱しました。
この怪我で一時は生死の境をさまよったとも言われています。愛刀「上総介兼重」もこの事件がきっかけで、修復不可能になるほどの激戦でした。そして池田屋事件の後、藤堂平助の仲介で新選組に入隊した伊東甲子太郎が、近藤勇や土方歳三と対立し、1867年に藤堂平助は伊東甲子太郎と共に新選組と決別することになるのです。
この時「御陵衛士」(ごりょうえじ)を組織しますが、かつての同志でもある新選組を相手に戦うことになる「油小路の変」にてあっけなく命を落とします。享年24歳という若さでした。
この戦闘前に近藤勇は「藤堂平助は生かしておきたい」旨を永倉新八に語っていたともされ、その死は袂を分かった、かつての新選組の皆にも惜しまれるものとなっています。検死記録が残っているにも関わらず、生存説が現在に伝わっているのは、人々もまた彼の死を惜しんでいたからにほかなりません。
油小路事件で死亡した後に新選組隊士の菩提寺である壬生の光縁寺に仮葬されましたが、王政復古後の1868年、朝廷の沙汰によって皇族にゆかりのある戒光寺に改葬されています。
藤堂平助の愛刀として知られる「上総介兼重」
「上総介兼重(かずさのすけかねしげ)」は江戸時代に活躍した武蔵国の刀工で、和泉守兼重の子、または弟子と伝えられています。
父親あるいは師匠である「和泉守兼重」と共に藤堂家に仕えていましたが、剣豪として有名な宮本武蔵の口添えもあって伊勢の藤堂藩のお抱え刀工となり、その際に「上総介」と名乗りを変えたという説もあります。
父あるいは師匠の和泉守兼重の刀が少なく、上総介兼重の刀は比較的多く残されていることから、近年までは同一人物説もありました。作風は、脇差や2尺3分前後の刀が多く、冴えた刀地、絶妙な匂口と沸口、互の目乱れの分が特徴的であり、名刀「虎徹」をほうふつとさせる、圧倒的な存在感を持っていたとされます。
藤堂平助が所有していた刀も2尺4寸5分(約73センチ)のよく鍛えられた、美しさが特徴の圧倒的な存在感のある逸品であったことが、伝わっています。
なお藤堂平助は153センチほどの小柄な身長の人物だったと伝えられているので、自分の身長の半分ほどもある刀を自在に振るって、新選組の数々の戦いの先頭に常に立っていたということになります。
藤堂平助にまつわる刀剣エピソード
藤堂平助が所有していた上総介兼重は、新選組隊士の中では最も高価であり、現在価格にして、1,000万円はしたともいわれています。このような高価な刀を一介の浪人である藤堂平助が、持つことが出来た理由のひとつに「藤堂平助は11代目伊勢津主・藤堂和泉守高猷のご落胤説」などがあります。
藤堂平助の出自にはその他にも諸説ありますが、由緒ある家柄である藤堂家の出身だったという説が最も有力視されています。そして池田屋事件でもこの上総介兼重を帯刀していたとされています。
この池田屋の激闘の最中、上総介兼重は刃こぼれが11か所、その他の大きな損傷を4か所も受けたため修復は不可能となってしまい、以降現存しない刀になりました。なお同じ型の上総介兼重は東京国立博物館、京都の六堂珍皇寺に所蔵されています。
まとめ
藤堂平助は、池田屋事件で失われた高価な愛刀「上総介兼重」から推測される高貴な出自や、「魁先生」「新選組四天王」などの異名を持ち、血気盛んで任務の際は先陣をつとめ、それでいて学問もよく収めた美男子と伝わっています。
その一生はとても短いため記録は少なく、油小路の変でかつての新選組の同胞に暗殺されるという悲劇的な最期ではあったものの、その短い生涯は新選組を初期から彩る華やかなものとなっています。
今もなお様々な創作物、小説やゲームなどによって広くその名が知られており、現代でも老若男女問わず人気があるのは、その短くも華やかな生きざまと、伝えられている人柄によるところが、大きいのです。