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公開日:2023/11/01  

新選組の兄貴分!「源さん」と慕われた六番隊組長・井上源三郎の刀とは

井上源三郎の刀

近藤勇の兄弟子であり、新選組を創設したメンバーの一人でもある井上源三郎は、新選組古参の幹部であり、局長の近藤勇や副長の土方歳三を補佐しつつ、対外的な交渉、要人の接待といった仕事などもこなしていたようです。仲間には「源さん」と呼ばれ親しまれていました。彼の人柄と、愛刀、それにまつわるエピソードなどを紹介していきます。

六番隊組長「井上源三郎」とは

新選組の中では、少しばかり知名度の低い井上源三郎ですが、生まれは文政12年、代々八文字で千人同心を勤めてきた井上家の三男として、現在の日野市、当時の多摩郡日野宿北原で生まれました。

近藤勇や土方歳三とは故郷が同じであり、近藤勇の兄弟子でもありました。

そして沖田総司とは親戚筋にあたります。4歳頃の沖田総司が源三郎の家に遊びに来ていたこともあったことが、知られています。

無口ですが非常に人がよく、稽古熱心であり、二人の兄と共に天然理心流を学んでいたため、土間や庭でも稽古し、井上家では本来の百姓の仕事が遅れて困った、というエピソードも伝わっています。

若い隊士からの人望も厚い反面、頑固一徹な面もあり、隊内の粛清などの汚れ仕事もまたよく引き受けていたようです。

近藤勇や土方歳三とは、絶大な信頼で結ばれており、二人の良き補佐役として勤めていたとされます。

井上源三郎の愛刀は「奥州白河住兼常」

井上源三郎は、長さは2尺2寸5分、そして宝永2年2月の銘が切られている刀「奥州白河住兼常(おくしゅうしらかわじゅうかねつね)」を所持していたとされています。

1864年の池田屋事件では、土方歳三の支隊指揮を担当し、近藤勇が斬り込んだという知らせを受けると自らも池田屋に突入し、8名の浪士を捕縛する功績を上げました。

その時も刃こぼれひとつしなかったとのことで、詳細の知られていないこの刀もかなりの名刀だったと、推測することができるのです。

いつも口数が少なく控えめな井上源三郎が、池田屋でこのような功績を上げた様子は、新選組幹部や仲間達にも驚いたといいます。

その後井上源三郎は、蛤御門の変や天王山の戦いなどで活躍し、愛刀と共に存分に腕前を示します。

しかし、1868年の鳥羽・伏見の戦いにおいて、鉄砲や大砲などといった近代の兵器を数多く揃えた薩摩軍と、激突しました。

激戦の末にとうとう撤退命令が出たにもかかわらず、井上源三郎をはじめとする新選組は、幕府への恩を返すべく戦い続け、彼もまた放棄された大砲を奪うなど、善戦したものの銃弾を腹部に受けて、戦死することになりました。

新選組創立の頃から、長年補佐してきた土方歳三に看取られて、逝去したという説もあります。

享年は40歳であり、井上源三郎が戦死した場所には「幕軍戦死者埋葬地」の碑が立っています。

甥で新選組隊士でもあった井上泰助が、その首と刀だけでも持ち帰ろうとしたものの激戦の最中であり、仲間達からも諭されて、やむなく近くの寺院の境内に首と一緒に愛刀を埋葬した、というエピソードが残されています。

その場所は長らく不明でしたが、後の研究により現在の京都市伏見区ではないかと、推測されています。墓所は、日野市の宝泉寺にあります。

口数は少なくても多くの仲間から慕われた兄貴分

近藤勇や土方歳三、そして沖田総司と同じく天然理心流の使い手でしたが、免許皆伝までに10年ほどかかったため、後世に至るまで、武芸の面で劣っていたという誤解を受けることも多々あったようです。

さらには司馬遼太郎の著作などにより「剣の弱い老人」などというイメージが流布されてしまったものの実際には、近藤勇との歳の差は5歳程しかありませんでした。

性格は非常に無口で人がよく、それでいて頑固な一面もあったとされています。派手さはないものの実直で努力家だったことをうかがい知れるのです。

鳥羽・伏見の戦いでの壮絶な最期も幕府への恩を返すためであり、その人生の最後まで、謹厳実直で義理堅かった人柄がしのばれます。

そんな古参の彼の持つ愛刀「奥州白河住兼常」も長さと銘しか知られていない、現存していない刀ですが、かの池田屋事件でも刃こぼれひとつしなかったといわれています。

それは、まさしく新選組における「縁の下の力持ち」である井上源三郎が持つのにふさわしい逸品だったと、推測できるのです。

まとめ

新選組の隊士達といえば、多種多様で華やかなエピソードを持つ個性的なメンバーと、そのメンバーの持つ愛刀にまつわるエピソードが、現在でも老若男女問わず人気を博しています。その中でも、派手な逸話こそなく、愛刀の「奥州白河住兼常」も現存してはいないものの井上源三郎は新選組の古参のひとりでもあり、隊の中でも年長者で、皆から慕われていたというエピソードが残っています。同門でもある近藤勇や土方歳三をよく補佐して、対外的な職務、要人接待などを担当しつつ、いつも熱心に稽古をしていたという逸話も残っています。故郷の生家には井上源三郎の兄の井上松五郎の子孫が開いた、彼の足跡や関連資料およそ二百数点をまとめた「井上源三郎資料館」があり、今でも地元の人のみならず、訪れる観光客が新選組に思いを馳せる場所になっています。

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