織田信長の優秀な側近で生涯を信長にささげた「森蘭丸」。短い生涯ながらも信長を語るには欠かせない存在であったため、多くの大河ドラマや映画にも登場する人物です。この記事では、そんな森蘭丸の人物像や森蘭丸の愛刀「不動行光」について、信長から蘭丸に贈られたエピソードなども交えて紹介します。
森蘭丸とは
まずは森蘭丸という人物について詳しく紹介します。戦国自体の名将・織田信長の側近として知られる森蘭丸は、容姿端麗で絶世の美男子だったとされています。しかしその生涯は短く、後世に脚色された部分も多いと考えられており、詳しいことがわかっていない人物の一人でもあります。
織田信長の有能な側近として活躍
森蘭丸は、織田信長の重心だった森可成の三男として1565年に尾張国葉栗郡に生まれ、1577年には弟たちとともに織田信長の下で小姓として仕え始めました。小姓とは武士の役職のひとつで、見習いとして主君の身の回りの世話などの雑用を請け負う係です。織田家に仕えるための教育を受けてきた森蘭丸は優秀な小姓として仕事をこなしていたとされ「森家先代実録」には蘭丸の容貌の美しさと完璧な立ち居振る舞いを示すエピソードが残されています。そんな蘭丸は織田信長からの評価も高く、小姓ながらも近江国に500石ほどの領地を与えられていました。
わずか18歳の若さで戦死
織田信長に忠実に仕えていた森蘭丸ですが、1582年にあの有名な本能寺の変でその生涯を閉じることとなりました。明智光秀が本能寺に攻め込んだとき、織田信長と森蘭丸は殿舎にいました。蘭丸は10,000ほどの軍勢を率いた明智に勇敢に立ち向かい、最後まで主君を守ろうと奮闘しましたが、明智軍に討たれわずか18歳という若さで非業の死を遂げたのです。
森蘭丸の愛刀
そんな森蘭丸の愛刀として知られているのが「不動行光(ふどうゆきみつ)」です。ここでは、不動行光の特徴や織田信長から贈られた際のエピソードを紹介します。
「不動行光」の特徴
不動行光は、相模国の刀工・藤三郎行光(とうさぶろうゆきみつ)により鎌倉時代に作られた短刀です。刀身の表に不動明王や矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制多迦童子(せいたかどうじ)が彫られていることから不動行光と名付けられました。しかしこの刀身彫刻は藤三郎行光本人ではなく、兄弟子の大進坊(だいしんぼう)が行ったといわれています。不動行光は25.4cmほどの短刀で、身幅が狭く内反り気味かつ小ぶりな姿が特徴的です。不動国光は、江戸時代に編纂された名刀集「享保名物帳」に記載されているともいわれていますが、実際には「不動」としか記載がないため、貞宗が作刀した「不動貞宗」のことではないかとも考えられています。
織田信長が譲った名刀
織田信長はこの不動行光をかなり気に入っており、酒の席で気分をよくすると頻繁に不動行光の自慢話をしていたようです。信長はあるとき臣下の者たちに不動行光を見せ「刀のこしらえにいくつ刻みがあるか当てた者にこの刀を褒美としてつかわそう」と言いました。ところが皆が答えていく中、森蘭丸だけが黙ったままです。わけを尋ねると蘭丸は「以前かわやで不動行光を預かった際に、刻みを数えてしまいました。知っているのに知らないふりをして言い当てるのは嫌です」と答えたのです。その正直さに感心した信長は、蘭丸に不動行光を与えたといわれています。
森蘭丸の愛刀の現在
そんな森蘭丸の愛刀・不動行光ですが、本能寺の変で蘭丸が倒れた後はどうなったのでしょうか。
伝来については諸説あり
不動行光の行方については正確な情報がなく、本能寺で焼失してしまったとする説や、織田信長の息子である織田信雄から、豊前国小倉の藩主である小笠原忠真に贈られたとする説も存在します。また、江戸時代中期の書物によると、当時はまだ本能寺に所蔵されていたという記録もあります。現存の不動行光は、小坂目肌の地鉄に焼かれている刃文が本能寺の変で焼かれたためにやや乱れていると考えられています。
現在は個人蔵
森蘭丸亡き後、織田信長の息子・織田信雄の手に渡り、江戸時代には小笠原忠真に贈られたとされる不動行光は、昭和初期の日本名宝展覧会では小笠原長幹伯爵が所蔵していたことがわかっています。現在は個人が所蔵しているとされており、2018年1月には40年ぶりに佐野美術館で特別展示が行われました。
まとめ
若き武将・森蘭丸の生涯とその愛刀「不動行光」について紹介しました。たった一振の刀に実にさまざまなエピソードをまとっている奥深さをうかがい知ることができるのではないでしょうか。この不動行光が個人蔵であるように、一般人でもこうした趣深い日本刀を所有することが可能なのです。さまざまな刀を取り扱っている日本刀の専門店では、鑑定や買い取りだけでなく、気に入った刀を売ってもらうこともできます。これぞという一振に出会いたい方はぜひ探してみてはいかがでしょうか。