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公開日:2023/03/01  

有名な戦国武将はどんな刀を持っていた?小早川秀秋の愛刀をご紹介!


小早川秀秋といえばあの関ヶ原の戦いの功労者にして、世間一般では“裏切り者”のイメージの強い武将です。石田三成率いる西軍に属していながら、東軍の徳川家康の元に突如として寝返り、徳川方に勝利をもたらしました。そんな彼の生涯と、彼の持っていた愛刀について解説します。

小早川秀秋とは

小早川秀秋は豊臣秀吉の妻であるおねの兄、木下家定の五男です。木下秀俊(ひでとし)としておねに養育されました。この苗字は後に羽柴、豊臣と変遷します。そして後継者に恵まれなかった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の養子となり、秀吉の後継者候補としてたった7歳で元服しました。しかし諸大名からは関白で義兄の豊臣秀次に次いで豊臣家の継承権保持者ともみられていたため、秀俊に取り入ろうとする全国の大名から接待を受ける日々を送ることになったのです。この元服と同時に、7歳にして毎晩酒を飲み続ける日々を送っていたとも伝わっています。秀吉に後継者が生まれた後は毛利家を通じ、小早川家の養子となりました。

このときに小早川の姓を戴くことになったのです。ところが義兄の豊臣秀次が失脚し、秀俊もまた連座して所領を没収されるという憂き目に遭いました。しかしその年にその養父である小早川隆景が隠居し、彼の所領を継いだのです。朝鮮出兵の準備中に、小早川隆景が死去します。小早川秀俊は名を“小早川秀秋”に改名し、出陣しました。そして朝鮮出兵で総大将を務めるなどして活躍しますが、逆に秀吉の機嫌を損ね、所領を没収されてしまいます。

そのときとりなしてくれたのが徳川家康でした。秀吉死後に勃発した関ヶ原の戦いでは当初“関白”就任や新たな領地などの好条件を出してくれた石田三成の西軍側に付いていましたが、突如として東軍に寝返り、徳川家康の勝利に大いに貢献したのです。これは育ての母ねねの影響が色濃いともいわれています。これにより岡山藩の藩主となりましたが“寝返り”の悪評には随分と悩まされていたようです。名前も秀詮に変えましたが、21歳の若さで亡くなりました。

その早い死は当時、寝返った西軍の武将たちの怨霊に悩まされた末、と世間では噂されたようですが、今では急性アルコール中毒だったという説があります。関ヶ原の戦いのわずか2年後であり、跡継ぎのいなかった小早川家はそのまま断絶という形になりました。

小早川秀秋の愛刀

12歳まで豊臣秀吉の養子だった小早川秀秋は、秀吉から下賜された刀や秀吉の死後も形見分けの刀をいくつも所持していました。小早川秀秋が所有していたと伝わる“波遊ぎ兼光”は、南北朝時代に備前(現在の岡山県)で活躍した長船派の刀工である兼光により作られた打刀です。“波遊ぎ兼光”という名は、干潮での渡し場での客同士のいさかいで客の片方が斬られたあと、川の向こうまで泳いでから真っ二つに割れて落命したことからその名がつけられたといわれています。数奇な運命をたどった一振りであり、上杉家、豊臣家、徳川家、松平家、立花家と何度も持ち主が変わっています。

そしてもう一振りは“岡山藤四郎”です。前田利家が購入した短刀です。前田利家から豊臣秀吉に献上され、秀吉の死後、形見分けとして小早川秀秋の手に渡りました。関ヶ原の戦いで秀秋が徳川方に寝返り、功績を上げたとして岡山の藩主になったため岡山藤四郎の名で呼ばれるようになったのです。その後は徳川家康に献上され、家康の死後は尾張徳川家に継承、江戸時代の末期には明治天皇に献上されました。現在は、東京国立博物館の所蔵となっています。

小早川秀秋の愛刀にまつわるエピソード

波遊ぎ兼光は、1595年(文禄4年)、この刀を所持していた秀吉の甥にして秀秋の義兄にあたる豊臣秀次が、高野山で切腹した際の介錯に使われたといわれています。その後には秀吉が所持し、1597年(慶長2年)の朝鮮出兵の際に小早川秀秋に譲渡されました。つまり、秀秋は義理の兄の首を落とした刀を所持することになったのです。

しかし秀秋はこれを喜び、朝鮮出兵の際にはこのいわくつきの刀で大活躍したという逸話も残っています。その後は徳川家康を介して松平家から柳川藩の立花家へ伝来しました。8代将軍である徳川吉宗により集められた名物刀剣の台帳である享保名物帳には、立花家の所有とありますが、吉宗が「見せろ」といっても見せなかったほどの名刀です。そして岡山藤四郎は享保名物帳では不知代(だいしらず)とされ、値がつけられないほど価値が高いものであるとされていました。

尾張徳川家から明治天皇に献上され、終戦後は東京国立博物館が所蔵しているとされていましたが、長らく行方不明でした。それを徳川美術館が調査し、2013年5月に東京国立博物館内でようやく発見されたのです。まさに戦国時代から江戸時代末期、そして戦後の混乱期を乗り越えて復活した一振りといえるでしょう。

まとめ

波遊ぎ兼光、岡山藤四郎どちらも歴史に名を残した人物の手を渡り歩くことになった名刀ですが、その両方を、関ヶ原の戦いという天下分け目の戦いで名を残した小早川秀秋が所有していたのです。関ヶ原の戦いという人生の分かれ道がやってきた当時、小早川秀秋はまだ19歳の青年でした。戦いの中迷いながらも歴史上大きな決断をし、長くはない生涯を波乱のうちに終えた小早川秀秋ですが、彼が所有していた刀やそのエピソードからも、その名や生涯の一端をうかがい知ることができるのです。

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