豊臣秀吉は貧しい農家で育ちました。その後、織田信長の家臣として昇進し、織田信長が実現できなかった天下統一を果たします。豊臣秀吉が愛した刀は現在も大切に所蔵されています。源家、足利家、織田家、徳川家などに伝わったとされる愛刀を歴史で振り返りながら見ていきましょう。
豊臣秀吉とは
貧しい農家で育った豊臣秀吉は、織田信長の家臣として昇進し、天下統一を実現した戦国武将です。
貧しい農家で育った幼少期
父が足軽出身、そして後の大政所となる母のなかの子として生まれました。貧しい暮らしを支えるために、幼少期は針売などの商売をして生計を支えていたといわれています。
織田家で昇進する
1554年に織田信長に仕えた当初は役職もなく、織田信長に草履を差し出す仕事でした。戦では足軽から始まり足軽組頭に出世すると、同じ長屋に住んでいたねねと結婚します。1566年に墨俣城を築き上げました。その後の1568年に観音寺城の戦い、1570年に金ヶ埼の戦いに参戦しました。そこで大活躍を見せます。金ヶ埼の戦いで退却戦に大成功した豊臣秀吉は、織田信長から黄金数十枚を渡されたといわれています。
中国地方攻略を任される
1572年、羽柴秀吉に改名します。この頃には織田家のなかで頭角を現していて、丹羽長秀や柴田勝頼のような人物になることを誓い、羽柴秀吉になったといわれています。1577年に播磨国を平定しました。織田信長やその家臣が本州の中央部を統一し、残りは中国地方の毛利のみとなりました。1582年の高松城を水攻めにしたエピソードはとても有名です。豊臣秀吉は戦法のなかでも籠城戦が得意で、籠城した城から食料や弾薬などの兵站を絶つ作戦が功を奏しています。ほかにも三木の干殺しや鳥取城の飢え殺しは有名です。
本能寺の変
1582年に本能寺の変が起きます。中国地方の毛利軍と対峙していましたが、毛利輝元との戦を中止してその足で京都へと向かいます。そして山崎の戦いで明智光秀を討ちます。織田信長の後継者を決めるために清須会議が行われ、三法師を豊臣秀吉は後継者に推薦しました。主君の敵を討ったことで豊臣秀吉の地位は向上していましたが、これにより柴田勝家とは大きな溝ができました。1583年、賤ケ岳の戦いで柴田勝家軍と対戦し、賤ケ岳の七本槍として後に有名になる加藤清正などの武将が登場しました。
天下統一を実現
織田信長の次男である織田信雄と関係が悪化した豊臣秀吉は、小牧・長久手の戦いで織田信雄に織田家の当主の座を譲ることで合意しました。そして1586年に関白に就任したため、豊臣秀吉の政権が始まります。その後、九州を平定、関東地方と奥羽地方に惣無事令を発令し、大名間の私闘を禁止しました。1590年、相模国の北条氏を降伏させ、天下統一を実現しました。
豊臣秀吉の最期
1593年に男児である鶴松が誕生します。後の豊臣秀頼です。しかし、鶴松が誕生する2年前の1591年に豊臣秀吉の甥である豊臣秀次が2代目の関白に就任していたため、豊臣秀吉の後継者となっていました。豊臣秀吉は、自分の子である鶴松を後継者にしたかったため、豊臣秀次の存在を疎ましく思い切腹させます。1598年に病気がちになり自分の死期が近いことを悟ると、徳川家康などの家臣を伏見城に呼び、鶴松に忠誠を誓うように伝えました。そして、この世を去りました。
豊臣秀吉の愛刀
豊臣秀吉の愛刀を3振紹介します。
太閤左文字
南北朝時代に現在の福岡県で活躍した刃工の最高傑作といわれる名刀です。覇気のある沸と明るく冴えた刀身が魅力です。銘は左筑州住、鑑定区分は国宝、刃長は23.6、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠と伝来し、ふくやま美術館に所蔵されています。
一期一振
鎌倉時代中期に現在の京都府で活躍した刃工が作成したといわれています。刃文は直刃調で地鉄は板目肌です。銘は吉光、鑑定区分は御物、刃長は68.8、毛利輝元から豊臣秀吉と伝来しました。
童子切安綱
平安時代に現在の鳥取県で活躍した刃工が作成したといわれています。切れ味はすさまじく最高傑作であり、6体の遺体を重ね切りしたといわれています。銘は安綱、鑑定区分は国宝、刃長は80、源頼光、足利家、豊臣秀吉、徳川家康と伝来しました。
豊臣秀吉の愛刀の現在
現在も所蔵されている豊臣秀吉の愛刀を紹介します。
にっかり青江
現在の岡山県西部の青江派が作成したといわれている脇差です。現在は香川県丸亀市が所蔵しています。地鉄は板目肌が詰んでいて澄肌が見えます。銘は羽柴五郎左衛門尉長、鑑定区分は重要美術品、刃長は60、丹羽長秀、豊臣秀吉、京極家と伝来しました。
三日月宗近
平安時代の名工が作成した太刀で、鎬と反りがある刀剣としてもっとも歴史があります。現在は東京都台東区へ寄贈されています。銘は三条、鑑定区分は国宝、刃長は80、足利家、徳川秀忠と伝来しました。
まとめ
豊臣秀吉の愛刀は、古くは平安時代から伝来しているものがあります。名刀にまつわるさまざまなエピソードがありますが、豊臣秀吉の名刀は、太閤左文字のように自分の役職を刀の名前にすることで、自らの実力を内外に誇示していたといわれています。貧しい農家から一代で天下統一を果たした豊臣秀吉の愛刀を一般開放している時間帯に訪れてみるのも楽しいでしょう。