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公開日:2023/01/15  

平安時代前期に作られた?伝説や古記録に語り継がれている刀剣その2


名刀には、神秘的な物語や伝承が残っていることが多くあります。とくに“魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)していた”つまり妖怪や鬼、怨霊があちこちで悪さをして、貴族も民衆も恐れおののいていた平安時代には、不思議な力を持った刀剣が活躍しています。さて今回は、どんな名刀が登場するのでしょうか?

三公闘戦剣(さんこうとうせんのけん)

三公闘戦剣は、大刀契(だいとけい)に含まれる一振りです。大刀契とは皇位継承において代々受け継がれる宝剣で、昔は三種の神器とともに宮中に安置されていました。

大刀契

大刀契は大刀と契に分かれており、大刀は三公闘戦剣と日月護身之剣という大刀2振りと節刀数振りのことをいいます。節刀とは、出征する将軍などに天皇から渡される任命を証明する刀のことです。契とは、兵を発するときに使用する割符で魚の形をしていました。桓武天皇の時代には、大刀契が皇位継承にともなって相伝されていたと考えられています。

百済から献上された

三公闘戦剣は破敵剣(はてきのつるぎ)とも呼ばれ、日月護身之剣とともに、百済王から献上されたと伝わっています。しかし、960年(天徳4年)の内裏火災の折に被災し、陰陽師・安倍晴明や賀茂保憲らの手で再鋳造されますが、その後も度重なる災難に遭い、南北朝時代の混乱の中で行方不明になりました。以後、三公闘戦剣を含む大刀契は発見されることなく現在に至っています。

小狐丸(こぎつねまる)

小狐丸は、平安時代の名工・三条宗近が打ったとされる刀です。三日月宗近をはじめ、数々の名刀を鍛えたことで知られる宗近は、一条天皇の御代(986~1011年)に活躍していたとされています。名刀小狐丸の誕生については、能の演目として次のような物語が伝わっています。

能“小鍛冶”

ある夜「宗近に刀を打たせなさい」と、夢で告げられた一条天皇は、橘道成に命じて宗近へ勅命を出します。畏まって宣旨(せんじ:天皇の命令書)を受けた宗近ですが、優れた刀を打つには、優れた合槌(ともに槌をふるって刀を打つ者)が必要でした。しかし宗近の希望に叶うような合槌は、なかなか見つかりません。途方に暮れた宗近は、氏神の稲荷明神に祈願をしました。

すると、どこからか童子(少年)が現れ「私が合槌を打ちましょう」と言い残して消えたのです。家に帰り、刀を打つ支度をしていると、稲荷明神の狐が現れ「私が合槌をします」と言いました。先ほどの童子は、稲荷明神の化身だったのです。宗近は狐を合槌に無事に刀を打ち終えると、刀の表に“小鍛冶宗近”と裏に“小狐”と銘を入れます。すると狐はその小狐丸を橘道成へ渡して、雲に乗って稲荷の峰へ帰ったのです。

小狐丸ゆかりの神社

残念ながら、宗近が打った小狐丸は現存していません。しかし、宗近とともに小狐丸を打った正一位合槌稲荷大明神がお祀りされている合槌稲荷神社という社が京都市東山区にあります。その社の近くには、宗近らがご祭神として祀られている鍛冶神社を末社とする粟田神社もあり、刀剣ファンの聖地となっている場所です。

朝日丸(あさひまる)

朝日丸は、平安時代後期から鎌倉時代初期に生きた西行法師が鳥羽上皇より下賜された刀剣です。その詳細は、鎌倉時代に書かれた『西行物語』に語られています。

鳥羽上皇より賜った朝日丸

1127年(大治2年)10月のある日、改装を終えた鳥羽離宮へ行幸された鳥羽上皇は、離宮内に描かれた障子絵に感動し、歌人たちに障子絵をテーマにした和歌を詠むように命じました。歌人たちはそれぞれに苦労しながら和歌を詠んでいると、藤原善清(ふじわらのりきよ)のちの西行が、たちまちのうちに素晴らしい和歌を10首も作ったのです。鳥羽上皇はとても喜び、善清に“朝日丸”という帝の御剣を錦の袋に入れて下賜されます。さらに善清は、女院からも15枚重ねの衣を賜り、羨望の的となりました。

善清から西行へ

善清は、院直属の精鋭である“北面の武士”であり、まさにエリートコースまっしぐらの人生を送っていました。しかし、いつの頃からか出家の道を考え始めており、帝からの過分なまでの賜りもの“朝日丸”は、彼にとっては仏の道を目指すきっかけの一つとなります。その後、親しい友の突然の死という悲しみを経験し、ついに善清は出家を決意するのです。鳥羽上皇の反対を振り切り、家族への愛情も断ち切り、出家した善清は西行と名を変え、修行の旅に出ました。朝日丸のその後の行方は分かっていません。

岩切(いわきり)

岩切は、平安時代中期の貴族・藤原保昌の佩刀と伝わっています。藤原保昌は文武に優れた人物で、藤原道長も一目置くほどでした。妻は、恋多き女性としても名高い歌人の和泉式部です。京都・祇園祭りの山鉾(やまほこ)の中に保昌山(ほうしょうやま)という山があるのですが、これは藤原保昌が和泉式部へ愛を伝えるために、御所内紫宸殿の紅梅を手折って捧げている場面がモチーフとなっています。

酒呑童子を退治した岩切

平安時代のある年、都において見目麗しい女性ばかりがさらわれていく事件が起こりました。陰陽師・安倍晴明が占ってみると、大江山の酒呑童子の仕業だと分かります。帝は、武勇の誉れ高き藤原保昌と源頼光、そして頼光の家臣にして四天王といわれた渡辺綱(わたなべのつね)・坂田金時・卜部季武(うらべのすえたけ)・碓井貞光(うすいさだみつ)を集め、酒呑童子の退治を命じました。山伏の姿に変装した彼らは、山に迷ったふりをして酒呑童子の屋敷へわざと誘い込まれます。

そこで持ってきた毒酒を、酒呑童子が酔いつぶれるまで飲ませたのです。ぐっすりと眠ってしまった酒呑童子を退治した保昌らは、さらわれた女性たちも無事に取り戻しました。この話は『御伽草子』という短編集にあり、その中で、頼光は血吸という刀を、保昌は岩切という刀を笈(おい:背負い箱)に入れ、大江山へ向かったと書かれています。残念ながら岩切は現存していませんが、頼光の佩刀だった血吸は、童子切という名で国宝に指定されています。

騒速(そはや)

騒速は、平安時代の英雄として名高い坂上田村麻呂の佩刀として伝わっている刀です。坂上田村麻呂といえば、桓武天皇の命により蝦夷(東北)征伐を成し遂げた人物で、騒速は蝦夷征伐の際に用いられた太刀とされています。

強敵蝦夷に対抗すべく作られた剣

朝廷軍の蝦夷討伐は、困難を極めており、坂上田村麻呂をもってしても簡単に平定できません。原因の1つは、彼らが持っていた武器・刀でした。反りのある“蕨手刀(わらびてとう)”という蝦夷軍の刀は、朝廷軍のものよりも丈夫で、馬上からも簡単に斬り下げられる優れた武器でした。田村麻呂は、蝦夷に対抗できるような強い剣を欲し、今までの直刀とは違いわずかに反りのある刀を手にしたのです。それが騒速でした。

蝦夷降伏

坂上田村麻呂の活躍により、801年(延暦20年)の第3次蝦夷討伐によって、ようやく蝦夷が平定されました。そして蝦夷のリーダーであった阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)が一族を率いて降伏してきたのを、田村麻呂が受け入れ、2人を都へ連れ帰ります。田村麻呂は潔く降伏した彼らの助命を願っていましたが、朝廷の命で阿弖流為と母礼は処刑されました。余談ですが、田村麻呂が創建に関わった京都清水寺には、阿弖流為・母礼の慰霊塔が建てられています。

女盗賊・立烏帽子との戦い

当時の鈴鹿峠は、盗賊がはびこる恐ろしい場所でした。とくに立烏帽子は、鬼女や魔王の娘といわれるほど恐れられていたため、坂上田村麻呂は朝廷から立烏帽子の討伐を命じられますが、そのときに持っていたのも、騒速だといわれています。田村麻呂の騒速に対し、立烏帽子は大通連(たいとうれん)という刀で立ち向かいました。騒速が鳥に姿を変えると大通連は風になり、騒速が火になると大通連は水になるという激戦を繰り広げます。

しかし決着はつかず、戦いの中で次第に意気投合した2人は、やがて愛し合うようになったのです。2人のなれそめや関係性については諸説ありますが、夫婦になった2人には小りんという娘も生まれ、2人で鬼の退治をすることもあったとされています。

騒速は今どこに?

現在騒速という名の刀は播磨清水寺に、そのほかに徳川家康が騒速を写したとされるソハヤノツルキが、久能山東照宮に所蔵されています。播磨清水寺の寺伝によると、坂上田村麻呂が騒速とほか2振りを奉納したとあり、3振りの大刀が保管されています。ただどの大刀が騒速なのかは分かっていません。

小烏(こがらす)

小烏という名の刀は、軍記やほかの書物の中に登場しており、小烏丸や小鴉丸などという名で呼ばれています。現在は、御物として小烏という刀が皇室に伝わっていますが、名の由来や来歴には諸説あります。

八咫烏がもたらした

桓武天皇が御所南殿におられたときのこと、1羽の八咫烏(やたがらす)が飛んできました。天皇が笏(しゃく:束帯着用の際、右手に持つ細長い板)で招くと、自分は伊勢神宮の使いだといって飛び去り、その後には一振りの太刀が残っていたのです。そこで天皇は、この大刀を小烏と命名しました。小烏は、平将門が乱を起こした際、討伐を命じられた平貞盛に下賜されています。

貞盛が命名した

将門討伐に向かった貞盛に対し、将門は術によって8人に分身します。そこで貞盛が兜に小さな烏の像が付いていた1人を斬ると、本物の将門も斬られたのです。このことから、小烏という名が付けられたという説もあります。小烏は、貞盛から代々平家に受け継がれ、忠盛、清盛、重盛そして維盛へと相伝し、平家滅亡とともに壇ノ浦に沈んだという説があります。

和田義盛が持っていた

ほかの書物によると、小烏は鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛のもとにあったとされています。義盛が北条氏を討つべく、兵を挙げたとき、足利義氏に討たれ、小烏も義氏の所有となったという説もありますが、以後の行方について書かれた記録は残っていません。

保管されていた小烏

江戸時代の1785年(天明5年)になり、平氏一門の血筋であった伊勢家から幕府に提出された文書により小烏が保管されていることが分かりました。明治に入ると平家の子孫とされていた旧対馬藩主の宗重正(そうしげまさ)が小烏を買取り修復したうえで、明治天皇に献上しています。以後は、小烏丸という名で御物として大切に保管されています。

もう一振りの小烏

小烏という名の刀は、別にもう一振りあります。源為義は、持っていた獅子の子(鬼切)より2分長い太刀を作っていますが、その太刀の名が小烏です。小烏と獅子の子を並べて立てかけていたところ、ひとりでに倒れて、獅子の子によって小烏が2分ほど斬られてしまったために、獅子の子と同じ長さになったという伝承があります。この小烏は、為義から子の為朝へ受け継がれていますが、平治の乱で為朝が殺されると、平清盛の手に移ったといわれています。しかし、その後の行方は分かっていません。

まとめ

ここまで平安時代に作られた名刀の来歴や逸話について紹介しました。どの刀にも多くの武士や貴族の思いが刻まれ、その魅力を私たちに伝えてくれるようです。一族の宝として大切に保管されて来た名刀、世の乱れとともに行方が分からなくなった幻の太刀、まさに伝説の剣など、調べてみるとまだまだ多くの刀剣が歴史の中に埋もれていることでしょう。さて次はどんな名刀に出会えるのか、どうぞご期待ください。

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