新選組の創設メンバーとして名を連ねている原田左之助について見ていきましょう。新選組の前身である浪士組からのメンバーで、槍の名手だったことが明らかになっています。新選組では、十番隊組長としてほとんどの戦闘に参加しました。上野戦争で最期を迎えますが、戦闘力と実務能力に長けた人物であったことが分かっています。
十番隊組長「原田左之助」とは
新選組では早くに命を落とすものもいた中、ほとんどの戦闘に参加しているのは驚きですね。どのような人物なのか見ていきましょう。
武家奉公人を務めていた
1840年に現在の愛媛県で生まれました。実家は武家奉公人だったので、原田左之助も同じく務めるようになりました。
切腹を経験する
ほどなくして藩校の明教館に在籍している助教に仕えますが、切腹を経験したことにより職を辞しています。切腹を経験したものの、命は落とさずに済みました。
新選組でのエピソード
宴会で酒に酔うと、たびたび切腹した傷の痕を見せていたといわれています。着物の前を広げて自慢していました。
脱藩後に武術の稽古に励む
最初は、現在の岡山県の浪人から武術を学びました。種田流の槍術です。その後は、江戸に出て近藤勇と意気投合することになります。江戸に出たときは、試衛館で剣術の修行に励みました。試衛館に居候の身となり、稽古に励んだといわれています。
浪士組の一員になる
1863年に近藤勇が浪士組の募集を開始しました。これに原田左之助も応募します。その後に、試衛館の関係者たちと一緒に上洛することになりました。しかし、京都に到着すると浪士組は内輪揉めが発生して、空中分解します。
原田左之助は京都に残ることを決意し、のちの新選組を創設するときのメンバーとして活躍することになります。
最初に武勇を発揮したとき
新選組に在籍していた頃の原田左之助が、最初に武勇を発揮したときは、会津藩の松平容保から芹沢鴨の粛清の名を受けたときです。芹沢鴨は新選組の筆頭局長でしたが、その横暴ぶりが目立っていました。原田左之助は、芹沢鴨の腹心を打ち取ったというエピソードが残っています。
池田屋事件で活躍した
新選組では、現在も語り継がれている池田屋事件で活躍しました。原田左之助は、斬り合いが行われている現場に駆けつけて入口を封鎖し、脱出した敵を槍で仕留めるなどしました。土方歳三の部隊に配属された者としての役目を果たしたことになります。
禁門の変で肩を負傷する
1864年の禁門の変で、第一線で活躍した原田左之助は、長州藩と戦って肩を負傷します。しかし、その後に長州藩が立てこもっている天王山での戦闘に参加しました。
十番隊組長になる
1865年に組織改編が行われ、原田左之助は十番隊組長になります。なお、こちらの役職だけではなく、兵站を担う重要な役割を遠征のときに担当していました。実務能力に長けていたことが分かります。
新選組が江戸幕府の直参になる
1867年に新選組が格上げされると、原田左之助も幕臣になりました。こちらは、旗本や御家人に相当します。
上野戦争で最期を迎える
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、土方歳三とともに新選組を指揮しますが、撤退して江戸に落ち延びます。その後、近藤勇と意見が合わなかったこともあり決別し、江戸城を防衛する任務に就きました。
しかし、江戸城を無血開城することになり、寛永寺に立てこもる彰義隊と合流します。原田左之助は、上野戦争に参加して最期を迎えました。
原田左之助が振るっていた刀剣・槍
原田左之助が使用していた武器は、現在でも有力な情報が集まっていません。しかし槍の名手であるということは今も語り継がれています。
槍の名手でも刀も振るっていた
原田左之助が最初に武術の稽古に励んだのは槍術でした。そのため、槍の名手として知られていましたが、刀も振るっていたことが分かっています。池田屋事件では日本刀を用いて戦っていたことが、記録から明らかになっているからです。
江府住興友を所持していた
江府は江戸を指します。また、興友は刀鍛冶の名前を表しています。こちらの名前は現在でも詳細は分かっていません。おそらく江戸で日本刀の鍛造に携わっていた職人の1人ではないかといわれています。
使用していた槍は分かっていない
原田左之助の墓の場所も明らかになっていないので、どのような槍を使用していたのか明らかになっていません。ただし、かなり長さのある槍を使用していたと記録している文書が残されているため、腕力に自信があったものとみられます。
戦う場所によって戦い方を変えていた
刀と槍を使い分けて戦っていたことが明らかになっています。
屋内での戦い方
屋内で槍を使用すると戦いにくいことから、原田左之助は、長さのある刀を使用していたといわれています。
屋外での戦い方
屋外では槍を使用して戦ったことから、刀も槍も腕前は相当高かったことが伺えます。新選組が関わった戦闘にほとんど参加しているので、戦闘力が高かったことが分かります。
まとめ
原田左之助が使用していた刀剣や槍についての情報はそこまで多くありません。しかし、戦う場所によって戦い方を変えていたことから、臨機応変に対応できる柔軟な思考を持ち合わせていたのかもしれませんね。
上野戦争で最期を迎えますが、最後まで徳川将軍家の思いを継ぐために行動してきた人物でした。刀剣や槍について興味がある人は、文献などに目を通してみましょう。歴史の学習にもなるでしょう。