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公開日:2023/12/15  

幕末四大人斬りのひとり!るろうに剣心のモデル・河上彦斎の刀とは?

人気マンガ「るろうに剣心」の主人公のモデルといわれているのが、河上彦斎(かわかみげんさい)です。河上彦斎は幕末四大人斬りのひとりで、「人斬り彦斎」の異名をもっていました。人斬りとして恐れられていた彦斎は、どのような人物で、どんな刀を使っていたのでしょうか?そこで今回は、河上彦斎の生涯と刀について解説します。

幕末四大人斬り「河上彦斎」とは

河上彦斎(かわかみげんさい)は、1834年(天保4年)に現在の熊本県にある肥後藩の下級武士・小森貞助の次男として生まれました。

11歳の頃に河上家の養子となり、「河上彦斎」と名乗るようになりました。彼は16歳の時に城で雑用を担当する坊主として働きながら、真剣に学問や剣術を修練しました。

また、軍学師範の宮部鼎蔵と出会い、尊皇攘夷の思想に共鳴しました。

人斬りと呼ばれ恐れられる

1863年(文久3年)、朝廷から京都警護の要請があり、彦斎は宮部らと共に上京しました。その後、尊皇攘夷思想をもつ活動家が朝廷から一掃される政変が起こり、彦斎は帰国命令を無視し、志を共にする長州の志士たちと行動を共にしました。

彦斎は、宮部が新選組によって池田屋事件で討たれたと聞き、報復として幕府に対する行動として、開国論者の佐久間象山を暗殺しました。禁門の変では長州の志士たちと共に戦いました。

その後、彼は高杉晋作の挙兵に賛同しましたが、肥後藩が幕府側について長州藩と戦ったことを知り、肥後藩に攘夷に加わるよう説得するために帰国しました。

不運の最後を遂げる

しかし、帰国後は脱藩の罪を問われ、投獄されてしまいます。幕末の大政奉還や鳥羽・伏見の戦いの時期には獄舎で過ごしました。明治政府が成立した後、彦斎は出獄し、他藩との外交役として活動。

しかしながら、攘夷の思想は新政府に受け入れられず、開国の準備が進行中でした。彦斎はこれに怒り、再び攘夷運動を起こそうとしましたが、藩の命令で左遷され、肥後藩の飛び地・鶴﨑(現在の大分県)に赴任させられます。

鶴﨑では洋式兵学校「有終館」を設立して教育に努めましたが、2年で解散させられました。かつての同志である大楽源太郎が有終館に逃げ込んできたことから、新政府の転覆を画策した罪で再び投獄されてしまったのです。

その後、彦斎は政府要人暗殺や反乱を企てたなどの嫌疑をかけられ、1871年(明治4年)の12月4日に斬首され、38歳で命を終えました。彼の事件への関与は低いものであり、政府によって危険分子と見なされ、排斥されたとされています。

人斬り彦斎が所有していた刀剣たち

人斬りとして活動していた河上彦斎ですが、どのような刀剣をもっていたのでしょうか?ここでは、彦斎が所有していた刀剣について解説します。

肥後国同田貫宗廣(ひごこくどうだぬきむねひろ)

彦斎の愛刀といわれているのが「肥後国同田貫宗廣」です。肥後藩(現在の熊本県)には、同田貫という刀工集団がおり、多くの実用刀を作刀していました。

肥後出身であった彦斎も同田貫の刀剣を所有していたと考えられています。同田貫宗廣は反りが浅く、仲切先が伸びるシンプルな姿の実戦を重視してつくられた刀剣です

片手抜刀を得意としていた彦斎には、最適な一振りだったといえるでしょう。

水心子正秀(すいしんしまさひで)

彦斎の脇差といわれるのが、江戸時代後期に活躍した名工が作刀した「水心子正秀」です。

水心子正秀は日本刀の作刀に一大変革をもたらした名工のひとりで、独自の刀剣理論を提唱し、実用本位の日本刀作りに邁進しました。

るろうに剣心のモデルとなった背景

河上彦斎は、人気マンガ「るろうに剣心」の主人公・緋村剣心のモデルになったといわれています。その理由は、彦斎と剣心の間にいくつもの共通点が見られるからです。ここでは、彦斎と剣心の共通点を探ってみましょう。

容姿や性格

彦斎は身長150㎝程度の小柄な体格で、色白の容姿で女性のように見えることもありました。彼は普段は礼儀正しく温和な性格だったとされています。

この容姿や性格は剣心にも共通するものがあるでしょう。しかし、彦斎は尊攘の妨げとなる有力者や反対思想を容赦なく斬り捨てるなど、厳しい一面ももっていました。

彦斎が酒の席で中座した後に幕府役人の首を切って戻ってきたという逸話も残っています。

人斬りだった過去

彦斎はかつて「人斬り彦斎」として江戸の人々から恐れられる存在でした。しかし、彦斎は佐久間象山の暗殺後に人斬りをやめたとされています。

佐久間の業績を知り、後悔したためです。剣心もかつて「人斬り抜刀斎」と呼ばれる過去がありました。彼の愛刀である逆刃刀は、人斬りだった過去の後悔の念から課したものだったのです。

剣術のスタイル

彦斎は肥後藩で修行したとされる「白耆流」の居合をはじめ、剣は我流だったと伝えられています。彼の得意技は低い姿勢からの逆袈裟斬りで、片手で相手を斬ることができました

剣心も「奥義・天駆龍閃」で同様の低い姿勢から逆袈裟斬りを繰り出す技を使っており、これは彦斎の剣術を模したものとされます。

まとめ

「るろうに剣心」のモデル・人斬り彦斎は、尊王攘夷を実現しようと活動していた志士のひとりでした。彦斎が最後まで攘夷を唱えていたのは、先に命を落とした同志たちの思いを貫きたいと考えたのかも知れません。なお、彦斎の刀をつくった同田貫宗廣の作品(刀剣)は、今も現存しているものがあり、美術品として高く評価されています。

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