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公開日:2023/12/01  

新選組の切れ者!新選組の参謀に大抜擢された伊東甲子太郎の愛刀は?

伊東甲子太郎の愛刀

新選組と聞けば、多くの方が浅葱色のダンダラ模様の羽織を思い浮かべるでしょう。新選組は、幕末の京都で治安を維持するために結成された浪士隊です。この中でも、伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は優れた頭脳と剣術により新選組の参謀として活躍しました。そこで今回は、伊東甲子太郎が所有した愛刀について解説します。

新選組参謀「伊東甲子太郎」とは

新選組参謀として知られる「伊東甲子太郎(いとうかしたろう)」は、容姿端麗で文武に優れ、弁舌にも長けた人物といわれています。

そんな伊東甲子太郎は、天保6年(1853年)に常陸国(現在の茨城県)志筑で江戸時代の旗本・本堂家の家臣であった鈴木専右衛門の長男として生まれました。

伊東が18歳のときに父が他界したことから、水戸に出て神道無念流の剣術を学びます。水戸での生活の中で、伊藤は尊王攘夷(天皇を尊び、次いで幕府を敬う)思想に傾倒していきました。

その後、伊藤は江戸に出て、坂本龍馬など幕末の志士が多く出入りしていた北辰一刀流の伊藤精一郎の道場に入門します。

腕が立った伊東は塾頭となり、のちに新選組に入隊する藤堂平助などと出会いました。さらに伊東の娘婿となって道場を継いだことで、伊東姓を名乗るようになります。

伊東が新選組に加入したのは、元治元年(1864年)の8月です。池田屋事件の直後で新選組の勢いが高まっている時期でした。新選組副長助勤の藤堂平助の誘いを受けて、伊東は道場を閉めて数名の同志とともに新選組に加入します。

このときに伊東は、甲子の年に合わせて名前を甲子太郎に改めました。その後、伊東は隊内NO.3のポジションである参謀に就任しますが、徐々に倒幕思想を高めた伊東は近藤勇との意見の違いが明らかになっていきます。

しかし、新選組には5か条の法度があり、脱退することは許されませんでした。そこで策を巡らした伊東は、慶応3年(1867年)3月に孝明天皇の御陵を警護する「御陵衛士」を拝命した上で、近藤勇に「あくまで新選組のための情報活動なので分離を認めてくれ」と説得し、新選組から離脱したのです。

伊東は同士14名とともに、東山高台寺の月真院に本拠を構えて高台寺常を結成しました。

伊東甲子太郎の愛刀は「濃州住志津三郎兼氏」

伊東甲子太郎が愛刀としたのは、「濃州住志津三郎兼氏(のうしゅうじゅうしづさぶろうかねうじ)」です。現在は残念ながら所在不明となっており、本物の姿を見ることは叶いません

しかし、刀を作成した志津三郎兼氏は歴史にその名を残こしています。志津三郎兼氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀匠です。

兼氏は大和国(現在の奈良県)の出身ですが、日本刀中興の祖といわれる正宗に日本刀の作刀法・相州伝を学び、正宗十哲(正宗の影響を受けた代表的な名工)のひとり。のちに美濃国(現在の岐阜県)の志津に移り、大和伝と相州伝を組み合わせた美濃伝を完成させました。

相州伝の鍛法を取り入れた兼氏の刀は、(にえ・刀身に現れる白い結晶のこと)の美しさを強調した作風になっているのが大きな特徴です。

姿は豪快な長寸で、重ね(かさね・刀身の厚み)も薄く鋭利になっており、鍛え(地肌の模様)には相州伝の板目肌(木材の板目のような模様)に大和伝の征目肌(木を縦に切ったようなストライプ模様)が交わっています。

刀文(はもん・焼き刀の形状)は、まっすぐな直刀(すぐは)と大波がゆったりと波打つような湾れ刀(のたれば)に、丸い模様が連続したような互の目(ぐのめ)という覇気のある乱刀(みだれば・直刀でないもの)の2種類です。

兼氏が作刀した刀は、今現在も高い評価を受けています。

最期は新選組に粛正され、非業の死を遂げる

大政奉還が表明された慶応3年(1867年)、11月15日に坂本龍馬が暗殺されました。伊東甲子太郎が亡くなった「油小路事件」が起こったのは、そのわずか3日後のことです。

11月18日に伊東は近藤勇の愛妾宅に呼び出されます。坂本龍馬の訃報を知り、警戒していたものの、礼儀を重んじた伊東は出かけて行きました。そこで伊東は近藤勇や土方歳三といった新選組幹部と酒を飲み交わした後、帰宅途中の油小路で待ち伏せしていた新選組の隊士らに襲撃され暗殺されたのです。

伊東は「肝賊(かんぞく・心がねじ曲がっている人)ばら」といいながら、近くにあった本光寺の門前で石柱を抱くように絶命しました。その後、伊東の遺体は油小路に放置され、御陵衛士をおびき出す囮として使われることになったのです。

死の知らせを聞いて駆けつけた御陵衛士たちも、待ち構えていた新選組と戦闘になり、3名が亡くなりました。伊東がなぜ狙われたのかについては明確な理由はわかりませんが、一説には新選組が刺客と見なした伊東が「冗談めさるな」と答えたことが原因であるとされているようです。

彼は新選組から離脱したわけではなく、むしろ新選組としての活動を選択したとも考えられます。しかしながら、真実は依然として不明です。33歳の若さで伊東甲子太郎は新選組によって暗殺され、その波瀾万丈の生涯が終わりました。今日でも本光寺の前には彼を偲ぶ石碑が建てられています。

まとめ

高い能力をかわれて新選組の参謀となった伊東甲子太郎ですが、新選組として活躍したのは1864~67年のわずか3年ほどでした。そんな伊東甲子太郎は、油小路事件で亡くなるときまで愛刀「濃州住志津三郎兼氏」を手放さなかったといわれています。残念ながら伊東の愛刀は所在不明となっていますが、今現在では精巧な模造刀がつくられ愛好者を楽しませています。日本刀に興味のある方は、伊東甲子太郎の愛刀もチェックしてみてください。

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