鎌倉時代(12世紀末 – 正慶2年/元弘3年〈1333年〉)は、鎌倉幕府が相模国鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれた約150年間を指す、日本史上初の武家政権による統治時代です。通常、文治元年(1185年)に源頼朝が守護・地頭を設置した時を始まりとし、元弘3年(1333年)の北条高時滅亡までを指しますが、始期については諸説あります。この時代は京都の朝廷と並び、鎌倉幕府が全国統治の中心を担いました。鎌倉時代には二度の元寇(蒙古襲来)をはじめ、地震や飢饉、疫病などが相次ぎ、50回の元号改元が行われました。そのうち30回は災異によるものでした。また、仏教(鎌倉仏教)が武家や庶民に広まり、社会に深く根付いたことも特徴です。
歴史的背景
鎌倉時代は武士の台頭によって各地で争乱が頻発し、それに伴い日本刀の需要が急増しました。後鳥羽上皇は「御番鍛冶制度」を創設し、刀工たちに積極的に作刀を奨励。この取り組みにより、日本刀は黄金期を迎えました。21世紀の時点で、国宝に指定されている日本刀は100件以上あり、その約8割が鎌倉時代の作品で、うち7割が太刀です。この時代の刀剣は歴史的価値が高く、技術や美術面でも優れた評価を受けています。
鎌倉時代初期
鎌倉幕府の武家政治体制が確立すると、刀剣界も活発化しました。源頼朝の死後、源氏政権は三代目源実朝で終わり、北条氏が実権を掌握。この動きを受けて後鳥羽上皇は朝威回復を図り、刀工を召して鍛刀を命じる「番鍛冶制度」を導入しました。熱心な愛刀家であった後鳥羽上皇は、自身も焼刃を施したとされ、日本刀の発展に大きく寄与しました。
鎌倉初期の刀剣は平安後期の上品な姿を受け継ぎつつ、鎌倉中期には豪壮な造りへと変化。反りの形状は鎺元(はばきもと)付近が中心になり、切先も一回り大きくなります。栗田口久國に代表される美しい地金や小丁子乱の刃文が目立つ時期でした。同時代には備前国の福岡一文字派や粟田口派、山城国の國友・久國、陸奥国の舞草派など、多くの名工が活躍しました。
鎌倉時代中期
鎌倉幕府は承久の乱で後鳥羽上皇と対立し、「御成敗式目」の制定により武士による全国支配を確立しました。この結果、鎌倉は武家文化の中心地となり、武器の需要が急増。山城国の栗田口国綱や備前の三郎國宗など、多くの刀工が鎌倉に集結しました。一方で、後鳥羽上皇は隠岐島に流された後も刀剣制作に関与し、菊御作(きくごさく)を後世に残しています。また、寺院の権力化と僧侶の武装化が刀剣界に影響を与え、大和国では寺院お抱えの刀工群が形成されました。幕府は武装僧徒を抑えようとしましたが、時代の流れを止めることはできませんでした。
鎌倉時代中期には刀剣の実用性が向上し、身幅が広く反りは浅め、堅牢な作りが特徴となります。地鉄は多様化し、備前鍛冶の匂出来(においでき)や一文字派の地景(ちけい)・映りなど、華やかな刃文が流行しました。この時期に短刀の制作も活発化し、筍造や振袖形の茎などの特徴が見られます。同時期の名工には、福岡一文字派の吉用や古長船派の光忠・長光、栗田口派の國綱・國清、来派の國行などが挙げられます。
鎌倉時代後期
鎌倉幕府は作刀技術の向上を目的に、全国から名刀工を招聘しました。山城国の粟田口藤六左近国綱や備前国の福岡一文字派助真、国宗派の国宗、新藤五国光などがその代表例です。新藤五国光は、山城伝の精緻な地鉄と大和伝の沸働きを融合し、「相州伝」の基礎を築きました。彼の弟子には行光や国広が、さらにその弟子には越中則重や正宗が名を連ねています。相州伝は備前伝の「匂出来」に対し、「沸出来」で知られます。
鎌倉時代末期の元寇や政治的動乱により、作刀はさらに活発化しました。この時期の刀剣は中期の特徴をさらに強調し、身幅が広く先幅との差が少なく、鋒が長くなる一方、全体的に重ねが薄い点が独特でした。短刀も長寸化し、豪快な作風が目立ちます。
相州伝をさらに発展させた岡崎五郎入道正宗は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍したとされます。正宗は硬軟の鋼を組み合わせ、砂流・金筋・湯走りといった沸の働きを際立たせました。彼の華麗な「湾れ(のたれ)」や「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えた刃文は各地の刀工に多大な影響を与え、正宗十哲と呼ばれる刀工を生み出しました。相州伝が「相州」の名で呼ばれるのは、その特異性を物語っています。
まとめ
日本刀は江戸時代や戦国時代の象徴と思われがちですが、その黄金期は鎌倉時代にあります。鎌倉初期には、平安時代の上品な刀剣の姿が豪壮な造りへと変化し、切先も大きくなり実践性が向上しました。鎌倉中期には、武士の支配を確立した御成敗式目の制定により、武器の需要が急増。さらに、寺院権力の拡大による僧侶の武装化も刀剣の発展に寄与しました。
鎌倉末期には元寇や動乱が相次ぎ、刀剣製造はさらに活発化。刀の姿は豪快さを増し、短刀も長寸化しました。この時代の作品は「古刀」と呼ばれますが、武士の台頭による争乱の中で制作技術が飛躍的に進化した時代として評価されています。