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公開日:2023/12/01  

幕末の志士として有名な坂本龍馬!刀剣愛好家だった彼の愛刀とは?

刀剣愛好家だった坂本龍馬

幕末に活躍し、広く知られる偉人である坂本龍馬。彼の名前を知らない人はまずいないでしょう。一般的に龍馬といえば、銃を手にした姿を思い浮かべるかもしれませんが、実は彼は意外なことに、刀剣にも深い愛着をもつ愛好家でした。彼は複数の貴重な刀剣を所有していたのです。そこで今回は、坂本龍馬の愛刀について解説します。

人気の高い幕末の志士「坂本龍馬」とは

坂本龍馬は、1835年(天保6年)に現在の高知県にあたる土佐藩の下級武士の家に生まれました。若き日々は剣術に情熱を傾け、嘉永6年には江戸の北辰一刀流の千葉道場に入門。

そして1861年(文久9年)に27歳となった龍馬は、親戚である竹市瑞山が率いる土佐勤皇党に参加しました。しかし、次の年には長州藩の尊王攘夷運動の中心人物である久坂玄瑞の影響を受け、龍馬は脱藩を決意します。

その後、幕府の軍艦奉行並である勝海舟の弟子となり、神戸海軍操練所建設に尽力しました。ところが、1864年(元治元年)に京都で池田屋の変が起こり、これが原因で勝海舟は幕府から蟄居を命じられます。

途方に暮れる龍馬でしたが、1866年(慶応2年)には長崎に亀山社中(後の海援隊)を設立しました。亀山社中は交易の仲介や物資の運搬を行いつつ、海軍や航海技術を習得することを目的とした特異な組織だったのです。

龍馬はこの組織を通じて、薩摩藩と長州藩を結びつけ、「薩長同盟」を成立させることに成功します

さらに1867年(慶応3年)には、土佐藩の参政であった後藤象二郎と長崎から海路上京する船中で、「船中八策」という独自の国家構想をまとめました。この中には大政奉還も含まれていたのです。

同年、龍馬は幕府に大政奉還を進言すべく奔走していましたが、京都の近江屋での会談中に襲撃を受け、不慮の死を遂げます。この事件により、坂本龍馬は短い生涯を終えることとなりました。

刀剣愛好家だった坂本龍馬の所有していた刀剣

刀剣愛好家の龍馬はどのような刀剣をもっていたのでしょうか?ここでは、龍馬の愛刀として有名な3刀について解説します。

陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)

陸奥守吉行は江戸時代につくられた日本刀で、坂本家が先祖代々受け継いできた刀剣です。龍馬は暗殺される前年、兄に手紙を出し「先祖伝来の刀で死にたいので、坂本家で保管している陸奥守吉行を渡してほしい」と願いました。

銃や刀剣を多数所有していた龍馬でしたが、敵から追われる日々に武士として思うところがあったのかも知れません。

その後、陸奥守吉行は西郷隆盛を通じて龍馬の元へと渡り、感謝と喜びの思いを綴った手紙が兄に届けられます。常に帯刀するほど龍馬が気に入っていた陸奥守吉行ですが、近江屋で暗殺された龍馬の最後を見届けることとなりました。

勝光守光合作刀(かつみつむねみつがっさくとう)

勝光守合作刀は、龍馬が幼少期から大切にしていた脇差です。この刀は備前の国(現在の岡山県)の名工、勝光と宗光の合作で室町時代につくられました。

刀身に「五大力菩薩」という仏の名前が刻まれており、龍馬が親からもらった守り刀だといわれています。

埋忠明寿(うめただみょうず)

埋忠明寿は、龍馬が海援隊結成時に手に入れたとされる刀剣です。龍馬が海援隊幹部の菅野覚兵衛に贈った刀剣であることが判明しています。

菅野は龍馬と同時期に勝海舟の弟子となった人物で、龍馬の妻・おりょうの妹の夫でもありました。そのため、龍馬と菅野は公私ともに深い親交があったことがうかがわれます。

坂本龍馬の愛刀の現在の所在

坂本龍馬が所有していた刀剣は現在どこにあるのでしょうか?ここでは、それぞれの愛刀の現在の所在について解説します。

陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)

陸奥守吉行は龍馬の死後、北海道在住の坂本家の子孫が保管していましたが、1913年(大正2年)の火災で変形してしまい、反りや刀文などの特徴が失われてしまいました。

そのため、この刀剣は陸奥守吉行ではないと判断されていたのですが、2015年(平成27年)に所蔵元の京都国立博物館の学芸員が、刀身の下にうっすらと別の刀文が見えることに気づきます。

この刀剣を文化財用のスキャナーで確認したところ、刀作した吉行の作風である「拳型丁子」の跡が見つかり、翌年に陸奥守吉行と認定されました。龍馬の愛刀である陸奥守吉行は、今現在も京都国立博物館に現存しています

勝光守光合作刀(かつみつむねみつがっさくとう)

勝光守光合作刀は1929年(昭和4年)に東京の展示会で展示されたのち、行方がわからなくなっていましたが、2015年(平成27年)に北海道在住の坂本家の関係者宅で見つかりました。

今現在は、京都国立博物館の所蔵となっています

埋忠明寿(うめただみょうず)

埋忠明寿は、1931年(昭和6年)に坂本家から京都国立博物館に寄贈されました。

京都国立博物館では土佐勤皇党員の刀として管理していましたが、2015年(平成27年)に資料が発見され、龍馬が海援隊幹部の菅野に贈った刀剣であることが判明したのです。埋忠明寿は、今も京都国立博物館にあります

まとめ

新しいものに好奇心旺盛な坂本龍馬は、銃やブーツを愛用する一方で、意外にも刀剣愛好家としての一面を持っていました。彼は少なくとも15本以上の刀剣を所有していたとされますが、残念ながらその多くは行方不明となっています。ただし、現在でも龍馬の愛刀の一部が京都国立博物館に所蔵されており、特別展などで彼の愛刀が公開されることもあるので、機会があればぜひ足を運んでみてください。

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