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公開日:2023/11/15  

新選組の初代筆頭局長はどんな刀をもっていた?芹沢鴨の愛刀とは

芹沢鴨の愛刀

現在でも本名や出生した年が明らかになっていない、芹沢鴨について紹介します。浪士組として上洛してから足跡が明らかになっている芹沢鴨ですが、剣の腕前が凄くて、攻めを主体とする、激しい剣法の師範役に就いていました。最期は近藤勇らに暗殺されますが、どのような刀を持っていたのか見ていきましょう。

新選組初代筆頭局長「芹沢鴨」とは

大胆で度量が広い性格の芹沢鴨は、剣の腕前が凄くて文武両道の人物でした。

しかし、破天荒な性格と酒乱の気があったことで、新選組に在籍させておくと、リスクが高いと会津藩から判断されるようになります。

本名と出生した年が分からない

本名が分からないといわれていますが、出生した年も明らかになっていないのが、芹沢鴨です。

まず、出生した年は1826年、1830年、1832年などの説があります。

現在の茨城県出身であることは分かっていますが、幼少期のエピソードなどは、明らかにされていません。

名前は芹沢であることは有力視されていますが、鴨は自分で付けたのではないかといわれています。

新選組の前身である浪士組の一員になるときに付けた可能性が高いことが、分かっています。

鴨という名前を付けたといわれている理由は、江戸時代の鴨肉と芹は、食材として絶妙な組み合わせだったので、芹と聞いて、連想しやすい鴨を採用したと考えられています。

浪士組に参加して上洛する

1863年に徳川家茂が上洛するときの警護を目的として、浪士組が集められました。

その一員として芹沢鴨は上洛しますが、本当の目的は、徳川家茂の警護ではありませんでした。

尊王攘夷運動を決行するために上洛したことが分かると、浪士組は空中分解が起こります。

そこで近藤勇たちと京都に残り、草創期の新選組を率いていくことになります。

大胆で度量が広い性格

芹沢鴨の性格は、大胆で度量が広かったといわれています。

性格にまつわるエピソードが残されていて、意思の疎通が思ったようにいかなかったときに会津藩士から、眼前に槍を突き付けられても動じなかったといわれています。

そして、自分の眼前に突き付けられた槍を鉄扇でゆっくり払いのけたので、肝の据わりは尋常ではありませんでした。また、大胆で度量が広い性格だけではなく、学問にも堪能で文武両道の人物でした。

酒乱の気がある

芹沢鴨は文武両道の人物でしたが、酒乱の気があったので、たびたびトラブルを起こしていました。

また、怒りをコントロールできない性格であったことも明らかになっており、大和屋を焼き討ちするという、事件を引き起こしてしまいます。

そして、朝から酒の香りがしていることから、常に酔っていたことになります。

次第にそのような日頃からの粗暴な振る舞いが、会津藩にも知られるようになります。

新選組は、京都守護職を務めている、会津藩のお預かりとなっています。

京都の治安を維持するのが任務なので、大和屋の焼き討ちや、酒にまつわるトラブルを引き起こしている芹沢鴨をこのまま新選組に在籍させるわけにはいかないと判断した会津藩は、近藤勇に暗殺の指令を出しました。

そして、近藤勇と土方歳三は計画を立てて暗殺を実行することになります。

芹沢鴨の愛刀は「備後三原守家正家」

体型に恵まれていたこともあり、威圧感がある体型から攻めを主体とする激しい剣法を習得しました。

攻めを主体とする激しい剣法の師範役に就いていた

新道無念流の門下生として剣の修行に励んでいました。

芹沢鴨の愛刀は、三原正家の名で広く知られている刀匠が製作したものといわれています。幾多の名刀を世に送り出していることでも有名です。

背丈が高くて恰幅の良い体型

芹沢鴨の威圧感のある体型と、並外れた剣術の腕前は光るものがありました。

相当な腕前であったことが、当時のエピソードからもうかがえます。

破天荒だった芹沢鴨が迎えた最期

剣の腕前が凄かったと認められていた芹沢鴨は、酩酊させた状態で討ち取られました。

近藤勇と、土方歳三が暗殺計画を立てていたといわれています。

酩酊させた状態で討ち取られる

芹沢鴨が最期を迎えたのが、1863年です。京都市で新選組隊士が大勢集まって、宴会が行われていました。

18時頃に芹沢鴨は中座しますが、土方歳三らとともに内輪の宴会に参加します。

22時頃に芹沢鴨が就寝すると、4人程度の刺客が芹沢鴨を襲います。

脇差を抜いて応戦しますが、不意に襲われたため防戦一方となり、多くの傷を負って絶命しました。

暗殺計画を立てた近藤勇と土方歳三は、酩酊させた状態で討ち取ることを考えていました。剣の腕前が凄かった芹沢鴨の実力を認めていたことが分かります。

現在も屯所跡に刀傷が残っている

屯所跡では現在も刀傷が残っているので、確認できるようになっています。

出生した年が明らかになっていないので、32歳、34歳、38歳で亡くなったといわれています。

まとめ

剣の腕前が凄かった芹沢鴨は、恵まれた体型を活かして剣の腕前を上げていきました。大胆で度量が広い性格でしたが、酒乱であったことと怒りをコントロールするのが難しかったこともあり、会津藩から暗殺の指令が出てしまいます。最期は刺客に討ち取られますが、現在も屯所跡に刀傷が残っているので、激しく戦ったことが分かるようになっています。愛刀は三原正家の名で広く知られている刀匠が製作しました。

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