南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、鎌倉時代と(狭義の)室町時代の間に位置します。広い意味では室町時代に含まれることもあります。始まりは、建武の新政の崩壊後、足利尊氏が京都で光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対し、後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮へ遷った1337年(建武3年/延元元年)とされます。
終わりは、1392年(明徳3年/元中9年)、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形で両朝が統一された時点です。ただし、始まりを建武の新政が始まった1333年とする見解もあります。この時代は、南北両朝が並立する特異な時期として歴史に刻まれています。
歴史的背景
南北朝時代、戦の規模は地方から全国に拡大し、戦術は単騎による騎馬戦から歩兵を動員した集団戦へと変化しました。武器も弓から太刀や槍、薙刀が主流となり、南北朝時代には刃長が1メートルを超える大太刀などが流行しました。また、相州伝と呼ばれる実用本位の鍛刀技術が広まり、その中でも正宗による技術革新が多くの刀工に影響を与えました。この時代に作られた刀は切れ味に優れ、「懐宝剣尺」や「古今鍛冶備考」などの格付けでも高い評価を受けています。南北朝時代に活躍した名工たちの作品は、今なお日本刀の歴史において重要な位置を占めています。
兼光
初期の作風は、景光が生み出した片落ち互の目や祖父長光に倣った丁子刃を焼き、帽子(切先の刃文)は湾れた小丸上がりの「三作帽子」となります。この頃の姿は鎌倉末期の太刀で、身幅が標準的でした。しかし、南北朝時代の延文期以降、作風は一変。大湾れ互の目乱れを基調とし、身幅が広く3尺を超える大太刀が鍛えられるようになります。また、帽子も「兼光帽子」と呼ばれる形状に変化しました。初期の厚みある刀身や猪首鋒など備前伝特有の格式高い姿に対し、延文期以降の作品は動的で力強い印象を持つ相伝備前の特徴が見られます。また、試し切りの際、兜を割ったと言われる「兜割り兼光」、鉄砲を切った「鉄砲切り兼光」、そして泳ぎ切った後に斬られたことに気付いたという逸話から名付けられた「波游ぎ兼光」などの逸品があります。兼光作品は現存数が比較的多く、国宝、名物、重要文化財として高い評価を受けています。
長谷部国重
長谷部国重(はせべくにしげ)は、南北朝時代から室町時代初期にかけて活躍した刀工で、「長谷部派」の祖とされています。通称は「長兵衛」(ちょうべえ)。相州伝開祖の新藤五国光(しんとうごくにみつ)の縁戚と伝えられ、国光が鎌倉長谷に住んだことから「長谷部」と名乗ったと言われます。また、正宗に師事し、「正宗十哲」のひとりとして名を連ねています。当初は相模国で作刀していましたが、鎌倉幕府滅亡後に京都へ移住。その後、南北朝の争乱により京都を離れるも、作刀を続けるため再び戻ったようです。作風は、相州伝特有の皆焼の刃文、大板目肌や大柾目肌が交じる地鉄が特徴です。短刀の現存在銘品はありますが、特徴的な磨上げのせいか、太刀の在銘品は現存しません。しかし、無銘ながらも国宝に指定された「へし切長谷部」は、長谷部国重作とされ、その名品ぶりが認められています。
志津三郎兼氏
津三郎兼氏(しずさぶろうかねうじ)は、日本刀の流派「五箇伝」の中で最も新しい美濃伝を完成させた刀工です。彼は元々、大和国手掻包永系に属し、大和伝を修めた後、相模国へ移住し正宗に師事しました。このため、後世では「正宗十哲」のひとりにも数えられています。鎌倉時代、美濃国には大和国から移住した千手院重弘が興した「赤坂鍛冶」がありましたが、南北朝時代になると、志津三郎兼氏と、相州伝を修めた金重が移住し、美濃伝を誕生させました。兼氏は多芸庄志津村(現在の岐阜県海津市南濃町志津)を拠点とし、「志津系」と呼ばれる流派を築きます。彼の刀は、大和伝と相州伝の要素を取り入れ、実用性に優れた切れ味が特徴で、「美濃物」として評価され、江戸時代には名物刀剣にも多く選ばれました。代表作には美濃国の大名・土岐頼芸が所有したとされる刀があり、直刃調ながら湾れや金筋といった技法が見られ、その卓越した技術を物語っています。
まとめ
南北朝時代、戦術は集団戦へ進化し、太刀や槍、大太刀が主流となりました。また、正宗をはじめとする刀工が活躍し、相州伝の技術が広がりました。刀工の中でも、備前長船派の兼光は相州伝技法を取り入れ相伝備前を確立し、動的な作風や「波游ぎ兼光」などの逸話で知られます。また、長谷部国重は相州伝に基づき「へし切長谷部」などの名品を残し、志津三郎兼氏は美濃伝を完成させ、切れ味に優れた「美濃物」で高い評価を得ました。南北朝時代の刀工たちの技術革新は、日本刀の歴史に重要な位置を占めています。