日光助真(にっこうすけざね)は、鎌倉時代中期に制作された日本刀で、現在は栃木県日光市の日光東照宮が所蔵し、国宝に指定されています。この刀剣を鍛えた助真は、備前の名流・福岡一文字派に属し、のちに鎌倉幕府に召されて相州鍛冶の礎を築いたことから「鎌倉一文字」とも称される刀工です。
概要
この太刀は、鎌倉時代中期に備前国福岡を拠点に活躍した福岡一文字派の刀工・助真によって鍛えられた日本刀です。助真は後に鎌倉幕府に召され、相州鍛冶の開拓者としても知られ、「鎌倉一文字」とも称されています。中でも彼が得意としたのが、豪壮かつ華やかな大丁子乱の刃文であり、本作はその代表作とされています。地刃ともに沸が強く、力強さと華麗さを兼ね備えた作風は、日光助真として高く評価されています。刀剣研究の第一人者である佐藤寒山は、その著書『武将と刀剣』で「絢爛目を奪うものがある」と評しています。また、附属の打刀拵も黒漆塗りや鉄鐔、赤銅の小道具などを備え、「助真拵」と呼ばれる室町後期から桃山時代の様式美をよく伝えています。歴史的価値の高い日本刀の一振りです。
名前の由来
日光助真という名は、徳川家康が生前に愛用していた日本刀が、没後に日光東照宮へ奉納されたことに由来すると考えられています。この名刀は元々、初代肥後熊本藩主・加藤清正が所持していたもので、1609年(慶長14年)、清正の娘・八十姫と家康の十男・徳川頼宣の婚約に際し、清正から家康へ献上されました。その際、家康はこの太刀をたいへん気に入り、自ら佩刀するための拵を特別に誂えたと伝えられています。この拵もまた国宝に指定されており、刀剣文化の美と技が凝縮された逸品です。日光東照宮に納められたことで、日光助真という名が生まれたこの日本刀は、歴史的背景と格式の高さを兼ね備えた名品として広く知られています。
作風
日光助真は、力強く重厚な造りが特徴的な刀剣です。鎬造りで庵棟を備え、広い身幅と厚みのある重ねをもちつつ、磨上げながら腰反りが豊か、猪首鋒の中切先が時代性を感じさせる太刀姿を示しています。地鉄は板目肌でやや流れごころに肌立ち、乱れ映りが美しく立ち、地沸もきらめきを添えています。刃文は焼幅が広く、特に表に大丁子乱れが高低をもって現れ、尖り刃や足・葉が頻繁に入り、匂口が深く華やかに沸づいています。表裏には棒樋が巧みに掻かれ、茎は磨上げ仕立てで目釘孔が二つ、下棟寄りに力強く「助真」の二字銘が刻まれています。このように、技巧と美しさが調和したこの刀剣は、日本刀の優美さと迫力を併せ持つ逸品といえるでしょう。
外装
この日本刀には、もともと加藤清正の所持時代に太刀拵が付属していましたが、徳川家康の手に渡った後、打刀拵へと作り直されたと伝わっています。この打刀拵は黒塗鞘に藍革の菱巻柄、黒漆塗りの柄鮫が用いられ、紺糸の下緒があしらわれています。目貫には赤銅容彫の蛙子が三双、鐔は花菱文と猪目を透かした鉄製の丸形で簡素ながら趣があります。小柄は赤銅波地に文銭三つを高彫色絵で仕上げ、笄には赤銅魚子地に葵紋三双が施され、いずれも後藤家の手による古雅な金具です。この拵は家康自身の実用性と趣味を反映しており、「助真拵」として後世に名を残しています。刀剣の装飾においても家康の審美眼が光り、日本刀の歴史的価値を物語る逸品とされています。
まとめ
鎌倉時代中期の名工・助真は、備前国福岡の刀工集団「福岡一文字派」に属し、後に鎌倉幕府に召されて相州鍛冶の礎を築いたことから「鎌倉一文字」とも称されます。この日本刀は、助真が手がけた中でも最高峰とされる作品で、華やかな大丁子乱の刃文が特徴です。1609年、加藤清正から徳川家康に献上され、家康の愛刀となりました。家康没後は、日光東照宮に奉納され「日光助真」として知られています。附属の打刀拵は黒を基調とした渋みのある意匠で、「助真拵」として後世にも影響を与えました。この刀剣は、日本刀の美と武家文化を伝える貴重な遺品です。