日本最古の歴史書・古事記と、すぐ後に年代別に編纂された歴史書・日本書紀には、神の手にあった数々の刀剣が登場します。まさに日本神話の世界にあった刀剣には、それぞれ神秘的な伝説が残り、私たちを惹きつけてやみません。今回はいったいどんな伝説の刀剣が登場するでしょうか。ロマンあふれる刀剣の世界をどうぞ楽しんでください。
天之瓊矛(あめのぬぼこ)
天之瓊矛とは、日本神話の国生みで伊邪那岐神(いざなぎのみこと)と伊邪那美神(いざなみのみこと)が持っている矛のことです。古事記では、天沼矛と書いて「あめのぬぼこ」と呼んでいますが、どちらも同じものです。
天之瓊矛はどんな矛?
瓊という字は「たま」と読み「玉」という意味があると日本書紀には書かれています。矛とは、長い柄の先に両刃の剣がついているため、天之瓊矛は、おそらく美しい石・宝石で飾られた矛だと考えられます。実在している矛ではないので、あくまで想像ですが、やはり神様が持つのにふさわしい美しい矛だったのでしょう。
天之瓊矛で何をしたの?
高天原の神々から国生みを託され、天之瓊矛を授かった伊邪那岐神・伊邪那美神は、天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天之瓊矛ではるか下の海を「こをろこをろ」とかき回しました。そして天之瓊矛を引き上げると、矛から落ちた滴が自然に固まって島となったのです。
二柱の神はその島に「於能碁呂島(おのごろじま)」と名付けました。ちなみに、古事記ではかき回したときの音から「於能碁呂島」と命名されていますが、日本書紀では、かき混ぜるときの音は表現されておらず、自然に凝り固まった島という意味で「磤馭慮島(おのごろじま)」と名付けられています。
十拳剣(とつかのつるぎ)
十拳剣とは、拳(こぶし)が十個分の長さがある剣という意味で、どれか一振りの剣を指しているのではありません。記紀(古事記・日本書紀)では、さまざまな神が十拳剣を持っており、それぞれに名前が異なります。こちらでは、記紀に登場する十拳剣のうち、特定の名前がついていないある一振りを紹介しておきます。
天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)
母・伊邪那美神がいる黄泉の国へ行こうと決めた素戔嗚尊は、その前に姉神・天照大神へ別れを言おうと高天原へ向かいました。しかし、天照大神は、乱暴者の素戔嗚尊が高天原を奪いに来たのではないかと疑います。そこで、素戔嗚尊は、誓約(うけい)という占いを提案しました。
誓約とは、互いの持ち物を交換して、口に含んで噛み、吐き出して神を生じさせるというものです。天照大神は素戔嗚尊の剣から三柱の女神を、素戔嗚尊は天照大神の勾玉から五柱の男神を生み出しました。女神たちは素戔嗚尊の子であり、男神は天照大神の子であるとされ、素戔嗚尊は心が清らかで戦う気持ちがなかったから、女神が生まれたと解釈され、しばらく高天原にいることを許されます。この占いで使われた素戔嗚尊の剣が十拳剣です。
天之尾羽張(あめのおはばり)
伊邪那美神は、火の神である火之迦具土神を出産したときにひどいやけどを負ってとても苦しんだ末に亡くなってしまいます。妻を殺された怒りで伊邪那岐神は、火之迦具土神を殺してしまうのですが、このときに使った十拳剣が、天之尾羽張です。火之迦具土神を斬ったとき、剣から血が岩に飛び散り、そこから建御雷神(たけみかづちのかみ)が生まれたほか、多くの神が生まれました。実はこの時点では、剣の名は出てきません。しかし、この剣の正体はその後にはっきりします。
国譲り
天照大神が大国主命によって治められていた地上の国・葦原中国(あしはらのなかつくに)を天津神に譲るように派遣した最後の神が剣の神・天之尾羽張神の子・建御雷神でした。伊邪那岐神が火之迦具土神を斬った剣に付いていた血から生まれたのが建御雷神、つまり伊邪那岐神が振るった十拳剣自体が天之尾羽張という剣神だったのです。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
高天原で暴れすぎて地上に追放された素戔嗚尊は、出雲の国で八岐大蛇を退治します。その時、八岐大蛇の尾から出てきたのが草薙剣で、別名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といいます。草薙剣は、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに正統な皇位の証である三種の神器であり、草薙剣と八咫鏡については、それぞれに形代(かたしろ:神の依り代)が作られました。ちなみに源平合戦・壇ノ浦の戦の際に安徳天皇とともに海に沈んだ宝剣は、草薙剣の形代です。本物の草薙剣は現在熱田神宮に祀られ、皇居には形代の草薙剣が置かれています。
神度剣(かむどのつるぎ)
神度剣は、記紀の国譲りの章に登場する十拳剣です。
国譲りの使者
大国主命に国譲りを言い渡すための使者として送られた天菩比神(あめのほひのみこと)は、使命を果たさずに大国主命の娘・下照比売(したてるひめ)と結婚してしまいました。困った天津神は、天菩比神のもとへ、雉を使いにやりました。すると天菩比神は使いの雉を、天津神から賜っていた弓と矢で射殺したのです。
雉を射殺した矢は高天原まで届き、天照大神と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は、大変驚きました。そしてその矢を再び放ちます。矢が邪心を持って射られたものであるかどうかを確かめるためです。矢は真っすぐに天菩比神の胸を射抜き、天菩比神は亡くなりました。
人違いに怒る!
天菩比神の死に父や妻は嘆き、なきがらを安置する裳屋(もや)を立てて弔いをしていました。そこへ大国主命の息子・阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が弔いにやって来ると、天菩比神によく似た阿遅志貴高日子根神を天菩比神と勘違いした父と妻は、阿遅志貴高日子根神の手足にすがりつきます。
死人に間違えられた阿遅志貴高日子根神は憤慨し、持っていた十拳剣で喪屋を切り倒し蹴飛ばしたのです。この剣を古事記では神度剣といい、日本書紀では大葉刈(おおはかり)と記されています。
布都御魂(ふつのみたま)
布都御魂も国譲りの際に登場する十拳剣です。布都御魂は神武天皇の東征のときにも登場しています。
建御雷神の剣
国譲りの使者として最後に指名されたのは建御雷神でした。出雲に下りた建御雷神は十拳剣を抜き、切っ先を上にして海の上に立ててそのうえにあぐらをかくという姿で、大国主命の前に現われました。建御雷神が大国主命に国を譲るように告げると、大国主命は息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に判断を任せ、事代主神は天の神に従い国を譲ると答えました。
しかし、もう一人の息子・建御名方神(たけみなかたのかみ)は納得せず、建御雷神の戦いを挑んできたのです。剣神である建御雷神は、建御名方神をあっさりと退け、ここに葦原中国の国譲りは終わりました。このとき建御雷神の持っていた十拳剣こそが、布都御魂です。建御雷神は、布都御魂を携えて高天原に戻りますが、その後再び登場するときがやってきます。
神武天皇の東征
国譲りがなされると高天原から瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降り立ち、高千穂(宮崎県)で国を治め始めました。その後瓊瓊杵尊の曾孫・神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)が天下を治めるための、よりよき場所を求めて東へ向かいますが、その道中は困難を極めました。筑紫から安芸そして大坂から奈良へと向かいますが、激しい抵抗にあうことも多く、同行していた兄の五瀬命(いつせのみこと)を失うほどでした。やっとの思いで熊野へたどり着きますが、熊野の神が荒々しい熊の姿で現れたのです。神倭伊波礼毘古一行は、熊野の神の気に当てられ、気を失ってしまいました。
そこへやってきた高倉下(たかくらじ)という熊野の住民が一振りの剣を神倭伊波礼毘古に近づけると、彼らはたちまち正気に戻りました。実は天照大神と高御産巣日神が、神倭伊波礼毘古を救うために建御雷神の布都御魂を高倉下に託していたのです。この後、神倭伊波礼毘古は、高御産巣日神が遣わした八咫烏(やたがらす)の導きにより、服従しない神々を征伐しながら、ついに大和へ入ります。そして、橿原宮を建立し天下を治めたのです。ここに神倭伊波礼毘古は、初代天皇神武天皇となりました。
布都御魂は今どこに?
神武天皇より10代後の崇神天皇の時代になり、布都御魂をご神体とする石上神宮(奈良県天理市)が創建されました。また、建御雷神をご祭神としている鹿島神宮(茨城県)には、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)という剣がお祀りされています。こちらの剣は、国宝にも指定されていて、奈良時代から平安時代初期の作とされ、布都御魂の複製だと考えられています。
まとめ
十拳剣を始め、不思議な刀剣は、多くの神とともに記紀に登場しています。どの刀剣も不思議な力を持ち、神を守っていました。神聖で高い力を持っている伝説の刀剣の中には、現存しお祀りされているものもあるという事実にロマンを感じる方は、少なくないでしょう。簡単には解読できない記紀ですが、この機会に一度目を通してみてはいかがですか。そしてぜひ伝説の刀剣に触れてみてください。