織田信長には数多くの弟がいました。その中の末弟が、大名にして茶人の織田長益(おだながます)、またの名を織田有楽斎(おだうらくさい)といいます。その波乱万丈な生涯と、茶人としての流儀、そして、有楽斎がもっていた愛刀“名物有楽来国光”について解説します。刀から人物の歴史を紐解いていきます。
織田有楽斎とは
織田有楽斎とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した大名・茶人です。かの有名な織田信長の末の弟で、本名は織田長益といいます。そんな織田信長の弟という生まれと立場でありながら、信長とは違って、病弱で大人しい性格だったようです。そのため武力よりは教養、そして交渉力を磨き上げることになったものとみられています。兄の信長もたしなんだという千利休の茶道にも触れ、数多い利休の弟子の中でもとくに、織部焼でも名高い古田織部らと並ぶ“利休十哲”として高名になりました。後に自ら茶道“有楽流”を創設することになります。そして本能寺の変にて兄信長を亡くした後には豊臣秀吉に仕え、有楽斎と名乗りました。
さらに豊臣秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に付き、大坂冬の陣では淀君の叔父として豊臣家と徳川家の交渉にあたりました。大坂夏の陣で豊臣一族が滅亡した後は、徳川家康に仕えています。その後は京都にて茶人としての余生を大いに楽しみました。有楽斎は織田家に生まれながらも、信長・秀吉・家康の三英傑全員に仕え、関ヶ原、大坂の陣などといった数多の大きな戦を生き延びました。
戦国乱世を同時代の勇壮な武将たちのほとんどよりも長く、そしてしたたかに生き抜いた有楽斎は、兄である織田信長や信長を討った明智光秀、織田家を乗っ取ることになった豊臣秀吉、そしてその豊臣家を滅ぼした徳川家康よりも長生きし、75歳で大往生をとげたのです。その名のとおり、諸説ありますが現在の東京の有楽町に、江戸にて徳川家康から拝領した屋敷があったとも伝えられています。彼の愛した桃色の美しい椿は別名“有楽”とも呼ばれ、学名もCamelliaurakuとなっています。
そんな織田有楽斎ですが、今では決してその知名度は高くはありません。しかし、戦に出るよりも和解交渉などといったことが得意な、他者の性格と時代の流れをよく見据える眼を持ち、戦国時代という激動の時代を誰よりも長く、そしてしぶとく生き抜いた隠れた傑物のひとりでもあります。子孫が治めた藩もまた明治維新まで続きました。有楽斎の興した茶道は子孫たちにより受け継がれ、現代に至っています。
そんな有楽斎の茶道“有楽流”に伝わる口伝には“相手に窮屈な思いをさせないこと”“相手に恥をかかせないこと”“相手に満足感を与えること”があります。これこそが彼が接待役、そして調停役として優秀だった証のひとつといわれているのです。
織田有楽斎の愛刀
そんな織田有楽斎が豊臣秀吉の息子、自らの大甥でもある豊臣秀頼から拝領した短刀が“短刀銘来国光”すなわち“名物有楽来国光”です。やや寸法が長く、そして反りがなくまっすぐで身幅が広い、厚い重ねが特徴のがっしりとして豪壮かつ覇気のある作りが特徴です。制作は鎌倉時代であり、差表(さしおもて)、すなわち刀を腰に差したときに体の反対側になる側には、不動明王の化身である剣“素剣”が彫り込まれています。
また、鮮やかで激しく、かつ美しい刃文も特徴的な一振りです。豪壮でありながらも凛とした品格をともなっているこの短刀は、昭和30年(1955年)には国宝に指定されました。地鉄が強く、刃文は激しいその作風から、鎌倉時代末期から南北朝時代に、現在の京都市にあたる山城国で活躍した、短刀作りの名手として名高い刀工、来国光の作といわれています。
織田有楽斎の刀剣にまつわるエピソード
有楽斎が所持した後は、刀剣の研磨や鑑定を家業とする本阿弥光甫の取次で、加賀藩の第2代藩主前田利常の元に渡りました。その後はさらに、前田利常の次男の富山藩藩主、前田利次の元へと渡ります。しかし富山藩の財政難で借金のカタとして再び前田の本家に戻ることになりました。そしてそれ以降は長い間、加賀百万石の前田家に伝来していた由緒正しい名刀です。
さらに8代将軍である徳川吉宗により集められた名物刀剣の台帳である“享保名物帳”には、五千貫(現在の価格にして約3.7億円)と記載されました。刀の名にある“名物”とは“享保名物帳”に記載される刀のことです。しばらくは個人蔵でしたが、現在有楽来国光を所蔵しているのは刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)となっています。2019年に財団が所有する名古屋刀剣博物館に収蔵されました。
まとめ
波乱万丈の戦国時代を生き抜いた文武両道の武将が、織田有楽斎です。織田家に生まれついた彼の愛刀は豊臣秀吉の息子で血縁でもある秀頼から与えられたものでした。織田と豊臣を結びつける歴史的な逸品であり、豪壮かつ優美なこの一振りこそ、織田家出身の武人であり茶人である文武両道の有楽斎に相応しい名品であり、この刀は後に文化的土壌の強い加賀の地で長く愛されたのです。それこそが、時代を見据え、文化を担い、厳しい時代を長く生き抜いた織田有楽斎の所有した名刀として相応しい在り方だったのかもしれません。