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公開日:2024/09/06  

幕末長州藩の尊王攘夷志士、”幕末の風雲児”高杉晋作の愛刀とは?

高杉晋作の愛刀とは
高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、幕末の長州藩士として活躍し、倒幕運動の先駆者となった人物です。高杉は長州藩内で尊王攘夷を掲げ、奇兵隊を創設して藩内の武装組織を強化しました。また、大胆で戦略的な行動で知られ、四国連合艦隊の下関砲撃事件を機に、長州藩を倒幕路線へと導きます。このリーダーシップと革新性は、倒幕の成功に大きく貢献しましたが、結核により早世。享年29歳の短い生涯ながら、その功績は日本史に深く刻まれています。

高杉晋作の愛刀

柳生新陰流剣術の免許皆伝である高杉晋作。そんな高杉が愛用していた日本刀は、「安芸国佐伯荘藤原貞安(あきのくにさえきしょうふじわらのさだやす)」と「粟田口(あわたぐち)」という2振の刀剣です。これらの刀は、高杉の思想と戦いの精神を象徴するものであり、歴史的にも高い評価を受けています。特に刀剣に関心がある方や、日本刀について調べている方々にとって、高杉の刀剣にまつわるエピソードは非常に興味深いものです。

安芸国佐伯荘藤原貞安の歴史

高杉晋作の愛刀の1つである「安芸国佐伯荘藤原貞安」は、もともとは薩摩藩士の梶原哲之助の差料として使われていました。この刀は、土佐藩士の田中光顕の手に渡り、後に高杉晋作が「ぜひに」と懇願して譲り受けたものです。高杉がこの刀を愛してやまなかった理由の一つには、刀匠「貞安」が波平鍛冶の流れを汲むと考えられている点が挙げられます。波平鍛冶は薩摩国(現在の鹿児島県)に拠点を置き、平安時代末期から続く刀鍛冶の一族で、その技術と名声は全国に知られています。また、この刀は「太く長い柄」「目貫無し」「小さな鐔」といった特徴を持ち、薩摩示現流の影響を受けた「薩摩拵(さつまこしらえ)」ではないかと推測されています。示現流は「平常は刀を抜かず、やむを得ない時のみ抜刀し、必ず相手を倒す」という掟を持ち、この拵えもその理念に基づいた形状となっているのです。高杉がこの刀を気に入り、田中光顕に譲り受けたというエピソードからも、刀剣が単なる武器ではなく、持ち主との深い絆や武士の美学を反映するものであることが窺えます。

粟田口派と高杉の刀

高杉晋作が愛用していたもう1つの日本刀「粟田口」は、鎌倉時代に京都東山の粟田口で活動していた刀工一派によって鍛えられました。「粟田口」は、平安時代から鎌倉時代にかけて京都で繁栄した刀工の流派で、その作風は地鉄の精緻さと、優れた切れ味が特徴です。粟田口の刀は、当時の貴族や武士からも高い評価を受け、朝廷にも日本刀を納めていたことで知られています。高杉晋作が所有していた「粟田口」の具体的な作例については、詳しい情報が残されていませんが、彼がこの刀を戦場で使っていたことは想像できます。粟田口派の刀は、その精巧さから「最高峰」と称されることもあり、歴史的価値も非常に高いです。このため、粟田口の刀を所有することは、当時の武士にとって名誉であり、また戦場での信頼できる武器でもあったのです。現代においても、粟田口派の刀剣は刀剣買取市場などで高い価値がつけられることが多く、収集家や愛好家の間で非常に人気があります。

まとめ

高杉晋作が愛用した2振の日本刀、「安芸国佐伯荘藤原貞安」と「粟田口」は、彼の人格や戦いにおける姿勢を象徴するものでした。特に「安芸国佐伯荘藤原貞安」は、その背景に波平鍛冶や薩摩拵えといった刀剣文化が色濃く反映されており、高杉の信念や武士としての生き様が強く感じられる日本刀です。一方、「粟田口」は京都の刀工によって鍛えられたもので、その精緻な作りと高い切れ味は、長い歴史を通じて受け継がれてきた技術の結晶です。これらの刀剣は、単なる武器ではなく、日本刀の持つ美しさや歴史的価値、そして武士道精神を象徴するものでもあります。これらの刀は高い価値を持つことから、刀剣を調査する際には、これらの歴史的背景や文化的価値を理解することが非常に重要です。高杉晋作の刀剣は、彼自身の生き様と共に今も多くの人々に語り継がれ、その魅力は色褪せることがありません。

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