Skip to content
公開日:2023/01/15  最終更新日:2022/12/16

平安時代前期に作られた?伝説や古記録に語り継がれている刀剣その1


日本刀の中には、伝説や史実として語り継がれている神秘的な伝承を持つものが多く存在しています。とくに怨霊・妖怪・妖・鬼などが強く信じられていた平安時代には、不思議な伝説を持った刀剣が多く登場したほか、平安朝の隆盛により皇室と深い関係をもつ刀剣も現れています。その中には現代にまで大切に受け継がれているものもあるのです。

壺切剣(つぼきりのつるぎ)

壺切剣とは、皇太子が代々相伝する宝刀で、斬壺剣(きりつぼのみつるぎ)とも呼ばれています。元々は、藤原長良(ふじはらのながら)が所持していたもので、かつてこの剣で酒壺を切った故事にちなんで壺切剣という名が付けられました。

皇太子に授けられる壺切剣

壺切剣は、長良から文徳天皇へ献上されたのち、陰陽師によりお祓いを受け、地中に埋められました。しかし、文徳天皇が急死したため、剣の行方がしばらく分からなくなります。その後無事に神泉苑近くで見つかると、藤原家に返され、長良の子・基経が宇多天皇に献上しました。その後醍醐天皇が立太子される際に宇多天皇より壺切剣が授けられ、以来立太子の時に天皇から剣が授けられることが慣例になります。

藤原氏の干渉と度重なる被災

藤原氏の力が増大になると、壺切剣の相伝にまで口を出すようになってきました。藤原氏の女性が産んだ子が皇太子になる際は壺切剣を授け、それ以外には授けなかったのです。挙句の果てに天皇の方から剣の受け取りを拒否される事態となり、藤原邸に持ち帰ることになってしまいます。しかし運悪く邸が火災に遭ったため、壺切剣も被災してしまいました。

藤原氏の手により、修理されたのちは、無事皇太子へ相伝されるようになりましたが、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との間に起こった承久の乱の際、壺切剣は再び行方不明になったのです。その後剣が発見されるまでの35年ほどの間は、代用の剣が相伝されています。以後、壺切剣の皇太子への伝授は、滞りなく行われてきましたが、江戸時代初期には二度も火災による被害を受けました。

現在の壺切剣

被災した壺切剣は、徳川幕府により修理・新調されて、現在に至っています。そして2020年11月、皇居において「立皇嗣(りっこうし)の礼」が行われ、今上天皇より皇位継承者である秋篠宮様に壺切剣が下賜されています。剣は、秋篠宮様が賢所にて祭祀を行われる際に側近が持参するそうです。

日月護身之剣(じつげつごしんのけん)

かつて、天皇へ代々受け継がれる宝器には、三種の神器以外に大刀契(だいとけい)というものがありました。大刀契とは、大刀二振りと節刀(せっとう)数振りを総称したものです。この中の大刀一振りを日月護身之剣といい、もう一振りを三公闘戦剣(さんこうとうせんのけん)と呼びます。

日月護身之剣の姿

日月護身之剣は、刃長が2尺2寸(約66cm)で、刀身の左側には、太陽・南斗六星・朱雀・青龍が、右側には月・北斗七星・玄武・白虎が刻まれ、ほかに漢文の銘文が入っていたと伝わっています。

度重なる災難

日月護身之剣は、960年(天徳4年)9月23日、それから35年後の内裏火災、また1094年(正歴6年)の3回にわたり多くの刀剣とともに被災しました。そのたびに安倍晴明らの手により修復されましたが、1227年(安貞元年)には、大刀契が盗難に遭っています。日月護身之剣と三公闘戦剣だけは、翌年に発見されています。朝廷は無事だった二振りの霊剣それぞれを櫃(ひつ)に納め、天皇行幸の際には随行させるようにしました。しかし南北朝時代になり、朝廷内が乱れたため、霊剣はいつの間にか行方知れずになったのです。その後大刀契は歴史上から姿を消してしまいました。

母子丸(ぼこまる)

母子丸は、平安中期の武士・平維茂(たいらのこれもち)の佩刀だったといわれています。平維茂は、桓武天皇の孫で桓武平氏の祖である高望王の血筋にあたり、余五(よご)将軍とも呼ばれた人物です。母子丸と平維茂の関係を表すような逸話は残されていませんが、維茂の8代目の孫にあたる城長茂(じょうながもち)と母子丸にまつわる逸話が伝わっています。

別名慕狐丸

長茂は、誕生してすぐに行方知れずとなり、4年後に狐が住む狐塚で発見されました。長茂を連れて帰ってくると、年老いた男に化けた狐がやってきて、長茂に刀や櫛を授けていったのです。この伝説から、長茂が持っていた刀を、狐が慕う刀「慕狐丸(ぼこまる)」と呼ばれ、同じ音の「母子」に転じたのではないかと考えられています。ただ、この刀剣は現存していないため、正確なことは分かっていません。

血吸(ちすい)

源頼光と平井保昌によって大江山に住んでいた酒呑童子を斬ったという平安時代の伝説があります。都の人々が行方不明になる事件がたびたび起こったために、陰陽師・安倍晴明に占わせると、都の北にある大江山の鬼・酒呑童子がさらったと分かります。酒呑童子の退治に向かった頼光と保昌は、持参した酒を鬼が酔いつぶれるまで飲ませて、無事退治しました。この時に使った剣が、血吸という刀剣で、酒呑童子を斬ったことから童子切と呼ばれるようになったということです。この剣は、国宝・童子切安綱として、東京博物館に現存しています。

髭切(ひげきり)

平安時代中期の頃、源満仲が、国を守るための刀剣を作るように天皇より命じられます。満仲に呼び寄せられた筑前国の名工は、八幡宮に参詣・祈願して二振りの刀を打ちました。満仲が罪人で試し斬りをしたところ、一振りは膝まで斬り下げ、もう一振りは髭までを見事に斬り落としたため、それぞれ膝丸・髭切と命名されたのです。しかし、髭切という名はその後持ち主が変わるのに連れて名が変わっていきます。

髭切から鬼切へ

二振りの刀が、満仲の嫡男・源頼光に受け継がれたころのことです。ある夜頼光は、家臣・渡辺綱の護身用にと髭切を持たせます。綱が一条戻り橋にかかったところで襲ってきた鬼の腕を髭切で切り落としました。以来、髭切は鬼切と呼ばれます。

鬼切から獅子の子へ

鬼切と膝丸は、代々源氏に受け継がれ、源為義が持ち主になっていました。ある夜二振りの刀は突然吠えるようになり、獅子のように吠える鬼切は獅子の子と、蛇の鳴き声に似た声を出した膝丸は吠丸と呼ばれるようになりました。

獅子の子から友切へ

その後、吠丸は、熊野に奉納することになり(為義の娘婿に与えたという説もあり)為義は吠丸の代わりに獅子の子より二分(約6mm)長い小烏という刀を作ります。獅子の子と小烏の二振りを並べて立てかけておいたところ、ひとりでに刀が倒れてしまいました。刀を確認してみると、小烏が切られて二分ほど短くなり、獅子の子と同じ長さになっていたのです。これは獅子の子の仕業に違いないと考えた為義は、以来獅子の子を友切と呼ぶようになりました。

友切から髭切へ

友切は、為義から義朝へ渡ります。源氏の宝刀を手にしていた義朝でしたが、平家との戦に敗戦続きだったために名刀友切の威力もとうとうなくなったのかと嘆きました。するとある夜、八万大菩薩が夢枕にたち「友を切るという名はよくない。たびたび名前を変えたために刀の霊力が弱まったのだから、名を元に戻せば力が戻る」というお告げを聞きます。そこで為朝は、友切の名を髭切に戻し、源氏の勝利を祈願して熱田神宮に奉納しました。為朝は平家の前に敗れましたが、その子・頼朝によって平家が滅ぼされ、源氏の世となったのです。

現在の髭切

髭切は、源氏の宝刀として代々源氏の家系に受け継がれ、1880年(明治13年)に北野天満宮に奉納されました。それが、現在京都の北野天満宮に収蔵されている重要文化財の鬼切丸です。

膝丸(ひざまる)

膝丸は、前述の髭切と共に作られた名刀で、試し斬りの際に罪人の膝まで斬り下げたことから、膝丸という名が付けられました。膝丸も数々の変遷を経ている刀です。

膝丸から蜘蛛切へ

ひどい頭痛に悩まされていた源頼光のもとに、巨大な法師が現れ、頼光に縄をかけようとしました。頼光は驚き、そばに置いていた膝丸で法師に斬りつけると、法師は消え去ったのです。慌てて駆け付けた頼光の家来が点々と残る血の跡を追ってみると、北野天満宮の裏に大きな塚があり、そこで血の跡が途切れていました。家来たちが塚を掘ると、大きな蜘蛛が傷を負って倒れていたのです。家来が蜘蛛にとどめを刺すと、頼光の頭痛はたちまち治りました。この出来事がきっかけで膝丸は蜘蛛切と名を変えます。

蜘蛛切から吠丸

蜘蛛切は、鬼切(髭切)とともに源為義に受け継がれ、ある夜から吠え始めた二振りはその吠え声から、蜘蛛切は吠丸、鬼切は獅子の子と名を変えられました。その後吠丸は熊野へ奉納され、しばらくの間静かに眠ることになります。

吠丸から薄緑へ

世は源平合戦の真っただ中、熊野権現にいた湛増(たんぞう)という僧は、源氏の血筋であったことから、戦勝を祈願して源氏の大将である源義経に吠丸を献上したのです。義経は大変感激し、吠丸を薄緑と改名して、佩刀とします。以後義経は怒涛の如く平家を攻め立て、滅亡に追いやったのです。しかし、後白河上皇に近づきすぎた義経は、兄頼朝に謀反を疑われます。義経は兄からの疑いが晴れるように祈願して箱根権現へ薄緑を奉納しましたが、兄弟の対立は深まるばかりで、義経はついに平泉で自害してしまいます。

薄緑の仇討

義経の死後も箱根権現に納められていた薄緑は、再び日の目を浴びるときがやってきます。1193年(建久4年)に起こった曽我兄弟の仇討に薄緑が一役買ったのです。曽我祐成(すけなり)・時致(ときむね)兄弟は、仇討成功の祈願をするために箱根権現へ参詣に行きますが、その際、箱根別当より刀を授かります。その刀こそ薄緑だったといわれています。薄緑は仇討が無事成功した後、頼朝に召し上げられ、再び箱根権現に奉納されました。

現在の薄緑

現在京都大覚寺に収蔵されている薄緑と、神奈川県箱根神社にある薄緑丸が存在していますが、どちらが本物の薄緑なのかははっきりしていません。ただどちらも神秘的な魅力を秘め、刀剣ファンの人気を集めています。

まとめ

現存する刀剣もすでにこの世にない刀剣も、遠い昔に存在し、誰かの手にあったと考えるだけで、心が浮き立つような感覚は、歴史ファンや刀剣ファンにとって珍しいことではないでしょう。ことに不思議な伝説が多き平安時代の刀は、陰陽師まで絡んでくるようなロマンあふれるものばかりです。調べてみればもっと多くの不思議な刀剣があるはずです。飽くなき探求心で、ぜひあなたの推し刀剣をもっと見つけてください。

よく読まれている記事