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公開日:2024/11/05  

安土桃山時代の日本刀には、どんな特徴がある?

安土桃山時代の日本刀
安土桃山時代は、1573年から1600年までの約30年間を指します。この時代の名称は、織田信長が築いた「安土城」(滋賀県近江八幡市)と、全国統一を果たした豊臣秀吉が築いた「大阪城」(別名「桃山城」、大阪市中央区)に由来します。信長による畿内統一と秀吉による全国統一の象徴として、「安土桃山時代」と言われています。

時代的特徴

この時代、1543年に種子島へ鉄砲が伝来し、信長は長篠の戦いで火縄銃を活用して勝利しました。また、豊臣秀吉の大阪城築城により大阪が商都として発展し、各地の刀工が集まりました。人の移動や流通の変化で「五箇伝」など地域の鍛刀方法が薄れ、刀の均質化が進みました。

日本刀史として

日本刀史では1596年(慶長元年)を境に、以前の刀を「古刀」、以後の刀を「新刀」と分類します。この時期、南蛮鉄などの輸入が増え、材質や鍛刀技術の変化により刀工たちの個性が際立つようになりました。特に慶長年間(1596~1601年)の作品は「慶長新刀」と呼ばれ、その代表的な刀工が「堀川国広」です。「新刀」という呼称は江戸時代の刀剣研究家・鎌田魚妙が著した『新刀弁疑』で「慶長以来」と示されたことから広まりました。

堀川国広

堀川国広(ほりかわ くにひろ)は、新刀期を代表する名工で「新刀の祖」と称されます。日向国綾地方(現在の宮崎県)出身で、当初は領主の伊東家に仕え、伊東氏の没落後は山伏となり諸国を放浪しました。この時期、1584年に名刀「山伏国広」を作刀し、さらに下野国では「山姥切国広」という作刀を残しています。晩年は京都の一条堀川に定住し、弟子の育成に励むとともに、穏やかな作風に変わっていきました。
国広の作風には「慶長新刀」と呼ばれる特徴が見られ、身幅広く反りが深い豪壮な姿を持ち、太刀や短刀などを制作しました。鍛えは小板目肌が良く詰み、地沸が細かく、刃文には互の目乱れや湾れが多く見られます。堀川定住後には「慶長打」・「堀川打」と呼ばれる多彩な作品が生まれました。彼やその弟子たちは彫物にも優れ、不動明王や梵字の彫刻が施された作品も数多く残っています。

埋忠明寿

埋忠明寿(うめただ みょうじゅ)は、京都(山城国)生まれの刀工で、平安時代の刀工・三条宗近の末裔と称し「第25代」を名乗りました。一族は刀装具を手がける金工家であり、彼自身も刀剣の彫刻や磨上げを得意とし、わずかな作刀例にその技術が残っています。埋忠は足利義昭や豊臣秀吉に仕え、特に新刀期の水挫し法を考案し、新刀鍛冶の祖とされます。初代忠吉ら優れた弟子を育て、埋忠一門の祖としての地位を築きました。
作刀は少ないものの、短刀には不動明王や倶利伽羅竜の彫物が見られ、長物では相馬家に伝わる太刀が国の重要文化財に指定されています。また、刀装具や鍔など金工品も評価が高く、刀剣鑑定では本阿弥家に基づく磨上げや茎の銘象嵌も手がけました。埋忠刀譜には、1605年から1660年の刀剣が押形とともに詳細に記録されています。

まとめ

室町時代後期以降、日本刀の主流は「打刀」へと変化し、交通の発展により産地ごとの地鉄の差が薄れ、刀工の個性がより顕著に表れるようになりました。信長や秀吉は古い太刀の磨上げを推進し、打刀と同じ姿を持つようになります。また、秀吉は本阿弥光徳折紙(刀の鑑定書)発行を許可し、慶長時代の日本刀「慶長新刀」は豪壮で派手な刃文が特徴的でした。この時期、日本刀は片手打ちから両手打ちへ変わり、身幅が広がり、中鋒も伸びていきます。さらに、1588年に秀吉が「刀狩令」を発布し、日本刀は武士のみが持つ特別な宝物としての価値が高まりました。

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