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公開日:2023/02/15  

有名な武将はどんな刀を持っていた?源頼朝の愛刀をご紹介!


源頼朝は壇ノ浦の戦いで平家を打ち破り、初代鎌倉幕府の将軍として、武家社会の基盤を構築しました。源頼朝の愛刀は、平安時代に作られた「髭切」といわれていますが、これまで何回も愛刀の名前は変わってきました。今回は、その愛刀の名称変更のエピソードや現在の保管先について解説します。

源頼朝とは

源頼朝(1147~1199年)は、武士政権である鎌倉幕府を作った初代将軍です。優れた統率力で源氏・東国御家人をまとめ、平家滅亡を達成し、全国制覇しました。源頼朝は、熱田神宮付近の旗屋町周辺で誕生しました。母は熱田神宮宮司である藤原季範の娘です。源頼朝の幼名は鬼武者で、義朝の三男として誕生したけれど源氏の嫡流として育てられました。平治の乱で敗北した源義朝は鎌倉から帰る途中で殺害され、さらに源頼朝は捕獲され、伊豆の蛭ヶ小島に島流しされてしまいました。

その後、伊豆の土豪である北条時政の娘・北条政子と結婚しました。治承四年(1180年)、源頼朝は打倒平家を掲げ、武家政権樹立を目指しました。木曾義仲との戦いや、朝廷を支配した後白河法皇との争いを経て、壇ノ浦の戦いで平家を打ち滅ぼしました。建久三年(1192年)に征夷大将軍に任命され、武家政権を誕生させました。鎌倉で幕府を開き、武士の棟梁として武家社会を作りました。源頼朝の勤勉さやリーダーシップ、統制力から偉大な武士として尊敬されています。

源頼朝の愛刀

源頼朝の愛刀は髭切といわれています。平安時代、髭切は、源頼朝公の七代祖先となる源満仲が、伯耆国(現:鳥取県西部)の刀工・安綱(大原安綱)に作らせたといわれています。仕上がった髭刀の試し斬りとして、斬罪人の首を斬ったところ、あごに生えていた髭までスパッと斬れたことから、髭切の切れ味を後世に伝えるために「髭切」と命名されました。

美女に化けた鬼・茨木童子の腕を斬る

髭切は源満仲から嫡男・源頼光に引き継がれました。源頼光は家臣の渡辺綱に、鬼の出没対策として髭切を貸していました。ある日、渡辺綱が夜道を歩いていると、泣いている美女がおり、何事かと声をかけると、泣いている女ではなく、鬼の茨木童子で、渡辺綱を連れさろうとしたことから、渡辺綱は鬼の腕をとっさに斬り落とし難を逃れました。渡辺綱が命拾いしたことから、髭切は鬼切と改名しました。その後、源頼光と渡辺綱たちは丹波の大江山に住んでいたという伝説上の鬼の頭目である酒呑童子を鬼切で退治しました。

獅子のように吠えたというエピソード

鬼切は源頼光⇒源頼基(頼光の子)⇒源頼義(頼基の従弟)⇒源義家(頼義の子)⇒源義親(義家の子)⇒源為義(義親の子)と代々受け継がれました。ある夜、鬼切が獅子のような声で吠えたことから、為義は鬼切を獅子ノ子と改名したといわれています。しかし、どのように刀が吠えたとか、刀が吠えてどのようなことが起こったのかという詳細な記述はありません。

友の小烏丸を斬り捨てたというエピソード

獅子ノ子には吠丸(元は膝丸)という対となる刀が存在していました。吠丸を娘婿に与えたことを後悔した源為義は、吠丸によく似た小烏丸という刀を作らせました。ある日、獅子ノ子と小烏丸を2振り並べて立てかけておくと、無風状態にもかかわらず突然2振りが倒れました。不思議に思いながら源為義が立てかけ直すと、獅子ノ子よりも2分(約6mm)長く作られていた小烏丸が、獅子ノ子と同じ長さとなりました。

源為義は「これはきっと、獅子ノ子が小烏丸を切ったに違いない」と思ったようです。物理的には考えられませんが、不思議なことが起きたものだと、獅子ノ子は友=小烏丸を斬ったことから友切と改名されました。

八幡大菩薩からのアドバイスで結局、元の髭切に

友切は源氏重代の家宝として源為義から嫡男の源義朝へ受け継がれましたが、平治の乱で平清盛に連戦連敗しました。「かつて八幡大菩薩の御加護を得て作られた、源氏代々の宝刀を持っていながら、何というザマだろう。もはや武運も尽きたか」と源義朝がぼやくと、八幡大菩薩が源義朝にアドバイスをしました。

「何を申すか。古来『名は体を表す』というであろう。そなたらがコロコロ名前を変えるから、そのたびに神通力が弱まっておるのだ。ことに“友切”など縁起が悪すぎる。早く元の名“髭切”に戻せば、次第に神通力も回復するであろう」

そこで源義朝はすぐさま刀の名を元の髭切に戻し、嫡男の源頼朝に渡したところ、その神通力は次第に回復しました。約20年の歳月を経て、源頼朝公は挙兵して平氏政権を討ち滅ぼし、源氏の棟梁たる征夷大将軍として鎌倉に幕府を開きました。

源頼朝の愛刀の現在

髭切から鬼切、そして獅子ノ子、友切、そして再び髭切に刀の名前がいろいろと改変されました。その後、二度と名前が変えられることなく、代々の鎌倉将軍家から幕府の滅亡時に新田義貞の手に渡り、新田氏を滅ぼした足利尊氏の一門・斯波氏に髭切は渡りました。

その後、戦国乱世を経て天下人である豊臣秀吉の要求を断り、髭切を守り続け、武士の世も遠く過ぎ去った1868年(明治元年)、最上家に伝来した髭切は手放され、1880年(明治13年)に京都府、大阪府および滋賀県の有志により北野天満宮に奉納されました。現在、北野天満宮の宝物館に保管され、特別展として公開されています。

まとめ

源頼朝は初代鎌倉幕府の将軍として、強力な統制力で武家社会を作り、偉大な武士として集めています。源頼朝の愛刀は、平安時代に作られた髭切といわれています。髭切はこれまで、鬼の腕を斬り落とし、獅子のように吠え、友刀である小烏丸を斬るなど、さまざまなエピソードから持ち主や刀の名前を変えてきたことで有名です。戦乱の世を経て明治時代となり、北野天満宮に奉納されています。現在は、宝物館に保管され、特別展として公開されています。

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