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公開日:2020/07/15  

有名武将たちが愛用していた刀をご紹介!

今も昔も多くの人を魅了するのが日本刀です。有名武将たちには現在で言う「コレクター」「マニア」級の収集家も多く、現在でも数々の逸品が残っています。また、武将にとっては命の次に大切な存在ということもあり、それぞれが重みのあるエピソードを持っています。有名武将たちはどのような刀を愛用していたのでしょうか。

たくさんの名刀を収集していた伊達政宗

仙台藩の初代藩主、独含竜の名で知られる伊達政宗は特に日本刀への関心が高く、数多く所有していました。今で言えばコレクターという表現が当てはまるかもしれません。よく知られているものだけでも「黒ん坊切景秀(くろんぼうきりかげいひで)」や「燭台切光忠(しょくだいみつきりただ)」をはじめ、10振り以上があります。

政宗は国包(くにかね)という専門職を育て、お抱えの鍛冶職人として作らせていたといいますから、相当な刀マニアだったのでしょう。黒ん坊切り景秀は、鎌倉期に備前を代表する鍛冶職人、景秀が作った作品です。変わった名前がですが、黒い牛のような大男を切ったという説からその名がつけられました。

また、黒ん坊景秀には鞍切景秀との呼び名もあるのですが、これは敵を切ったときに敵が乗っていた馬の鞍まで切れたことが由来しているともいわれます。いずれにしても、相当切れ味が良かったことがうかがえます。

燭台切光忠は景秀の兄とされる備前の光忠が作った逸品です。人を切ったとき、ろうそくを立てる燭台まで切れたことから、その名がつけられたといわれます。織田信長から豊臣秀吉の手に渡った後、政宗に下賜されました。戦国時代のさまざまなドラマを共にした貴重な刀といえます。

政宗が特に気に入っていたものでしたが、その後は徳川家に献上するため手放したとのことです。太鼓鐘貞宗(たいこがねさだむね)は堺の太鼓鐘という商人から徳川家へ献上され、徳川家から伊達家へ振姫が輿入れするとき、一緒に伊達家へ渡ってきたのだといわれています。現在は重要文化財に指定されています。

上杉謙信、武田信玄が大切にしていた刀とは

上杉謙信は伊達政宗と同じように刀をたくさん収集していました。関東管領という役職についていた謙信が将軍家や天皇家からしばしば贈られていたことも関係しているようです。「小豆長光(あずきながみつ)」は、歴史上でも有名な川中島の戦いで、上杉謙信が武田信玄に斬りかかったときに使っていたとされています。

作ったのは備前の職人で光忠の実子・長光です。名前の由来は、袋に空いていた穴からこぼれた小豆があたっただけで真っ二つに割れていたことだとされています。また「姫鶴一文字(ひめつるいちもんじ)」もたいへん有名です。

名前の由来は、長すぎるので切り縮めようとしたところ、鍛冶職人の夢に鶴姫という美しい姫が出てきて切るのをやめるよう懇願したことからきています。名前の由来に怖いエピソードを伴うことも多いなか、姫鶴一文字のエピソードは幻想的です。現在は重要文化財に指定されています。

武田信玄は「三日月正宗(みかづきまさむね)」や「星月夜正宗(ほしづきよまさむね)」などを持っていました。三日月正宗は、特に逸品とされる「天下五刀」のひとつです。平安時代に三条宗近という職人が作った、比較的古い作品です。

名前の由来は、焼き入れの際にできる打ち除けが三日月状の模様に見えるからとされています。また、天下五刀のなかでも特に美しい作品ともいわれます。星月夜正宗は、相州正宗が作った脇差です。夜空の星のように見えることからその名がつけられました。

織田信長、石田三成が一生大切にした刀とは

織田信長もまた大変なコレクターでした。献上されたもの、討ち取ったものを含めさまざまな種類を収集していました。その数も非常に多かったのですが、特に気に入っていた備前の光忠が作ったものは30振り以上所有していたといわれます。

「へし切長谷部(へしきりはせべ)」は、山城の鍛冶職人・長谷部国重の作品で信長が特に愛用していたものです。信長に敵対をはたらいた茶坊主を棚ごと刃でへし切ったことから、そう呼ばれるようになりました。残酷なほど切れ味が良かったことがうかがえます。

「義元左文字(よしもとさもんじ)」は、桶狭間の戦いで信長が敵の今川義元を討ち取ったとき、義元から奪い取ったものです。信長は刃を切り縮めて「織田尾張守信長」と自分の名を刻み、本能寺の変で敗れるまで愛用しました。死後は豊臣秀吉、徳川家康のもとへと受け継がれていきました。

石田三成は生涯を豊臣秀吉のために尽くし、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れて散った武将です。秀吉の有能な臣下であることで知られ、愛用品には「石田政宗」と「切刃貞宗」があります。

石田宗政は、政宗という職人が作った作品で、秀吉の臣下、宇喜多秀家が三成に贈りました。刃にはっきり残る切り込みが2か所残っており、実際に激しく使われていたことを物語っています。その様子から「石田切込政宗」とも呼ばれます。

切刃貞宗は家康が三成に贈った脇差です。関ヶ原の戦いで、家康の命により田中吉宗に探しだされ窮地に陥りますが、吉宗は新味に三成の世話をします。光成は敗れますが、家宝として大切にしてきた切刃貞宗を吉宗に授けたという話が残っています。

 

有名な武将が愛用していた代表的な刀について紹介しました。自分のために作らせたものもあれば、贈られたものや討ち取った敵から奪取したものもあります。興味深いのは名前の由来です。おそろしいくらいに切れ味が良いことから別の呼び名がつけられたものも少なくありません。悲しいドラマを持つものもあります。

こうして誰がどのようなものを持っていたのか、どのような使われ方をしていたのか知ると、ますます刀に興味がわいてくるのではないでしょうか。

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