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公開日:2023/02/01  

日本でもっとも有名な刀剣!漫画やゲームでよく出てくる草薙の剣とは


草薙の剣(くさなぎのつるぎ)は、古くは古事記や日本書紀、もしくはゲームやアニメに登場する日本で一番有名な剣ではないでしょうか。伝説の中の剣のように思われている草薙の剣は、実は今も存在しているのです。日本が誇るべき宝である草薙の剣は、どのような歴史を歩み、伝説となったのか、今回は、草薙の剣について詳しく解説します。

日本神話に登場する伝説の刀剣

草薙の剣が初めて登場するのは、古事記、そして日本書紀です。

暴れん坊の素戔嗚尊

亡くなった伊邪那美(いざなみ)を黄泉の国へ迎えに行った伊邪那岐(いざなぎ)は、醜い姿に変わった伊邪那美から逃げ延び、穢れを払うために禊(みそぎ)を行います。そのときに生まれたのが、天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つくよみのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。天照大神は高天原を、月読命は夜の世界を、素戔嗚尊は海を治めるように命じられました。ところが素戔嗚尊は、とても暴れん坊だったため天上界から地上へ追放されたのです。

素戔嗚尊の大蛇退治

出雲の国へ降り立った素戔嗚尊は、ひとりの娘を挟んで泣いている夫婦に出会います。その夫婦には、娘が8人いたのですが、毎年襲ってくる八岐大蛇(やまたのおろち)に食べられてしまい、最後に1人残っていたのが美しい櫛名田比売(くしなだひめ)でした。八岐大蛇は8つの頭と8つの尾を持ち、恐ろしい怪物でした。

素戔嗚尊は、娘の櫛名田比売を妻にめとるということを条件に、八岐大蛇を退治すると約束します。櫛名田比売を櫛に変え自らの髪に挿した素戔嗚尊は、強い酒を用意して、八岐大蛇を待ち構えました。そして酒に酔い、寝入ってしまった八岐大蛇を、素戔嗚尊は持っていた十挙剣(とつかのけん)で八つ裂きにして、見事退治したのです。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

素戔嗚尊が、八岐大蛇の尾を斬っていると、刃が何かに当たり欠けました。尾を切り開いてみると、そこから一振りの剣が出てきたのです。八岐大蛇が現われるといつも不気味な雲がかかっていたことから、その剣は天叢雲剣と名付けられます。そして素戔嗚尊はこの剣を高天原の天照大神に献上しました。約束通り櫛名田比売と結婚した素戔嗚尊は、出雲で幸せに暮らしました。

三種の神器のひとつ

天照大神のいる高天原にあった天叢雲剣は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上へ降り立つ(天孫降臨)時に、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに携えていました。

三種の神器(さんしゅのじんぎ)

古事記・日本書紀では、瓊瓊杵尊の曾孫が初代天皇・神武天皇だとされており、天叢雲剣と八咫鏡・八尺瓊勾玉は、天皇の証である三種の神器として継承されるようになりました。こののち、第10代崇神天皇までは三種の神器は、宮中に置かれていたのですが、天照大神自身ともされる八咫鏡や神々しい輝きを放つ天叢雲剣を宮中に置いておくのはあまりにも恐れ多いとされたため、本物の八咫鏡と天叢雲剣は別の場所に移され、最終的には伊勢神宮に奉納されました。

三振りとなった「天叢雲剣」

宮中には、本物の代わりに形代の剣と鏡が置かれます。形代とは、神の依り代であり、天叢雲剣と八咫鏡の力を分祀したものです。天叢雲剣の形代は二振り作られ、もう一振りは本物の天叢雲剣、八咫鏡とともに伊勢神宮に納められました。以後宮中には、本物の八尺瓊勾玉と形代の八咫鏡、天叢雲剣が三種の神器として継承されているのです。

草薙の剣にまつわるエピソード

天叢雲剣が再び表舞台に現れるのは、崇神天皇の2代後である景行天皇の時代です。

勇者日本武尊

景行天皇は、息子の日本武尊(やまとたけるのみこと)が、兄をも殺してしまうほどの荒々しい性格だったことを非常に恐れていました。そこで彼に九州と出雲の征伐を命じます。日本武尊は、無事に平定させ帰ってきますが、父・景行天皇からのねぎらいの言葉はなく、さらに東方の制定を命じられるのです。日本武尊は、東方へ行く前に伊勢神宮へ参拝します。伊勢神宮には、叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)がいました。

心優しい倭比売命に会った日本武尊は、思わず弱音を吐きます。「西方を制定してやっとの思いで帰ってきたところなのに、またすぐに東方へ向かえとは…父は私など死んでしまえばよいと思っているのではないでしょうか」倭比売命は、傷心の日本武尊に天叢雲剣と火打石を与え、言いました。「危急のときには、これを使いなさい」

草薙剣誕生

天叢雲剣と火打石を携えて東征に向かった日本武尊は、途中の尾張国で出会った美夜受比売(みやずひめ)と結婚の約束をして、さらに東へ進みます。困難を極めた東征で、日本武尊は、だまし討ちに合いそうになりました。野原に誘い出され、火を放たれたのです。絶体絶命のピンチのとき、思い出したのが叔母の言葉でした。日本武尊は天叢雲剣で火のついた草を薙ぎ、火打石で火をつけ、窮地を脱します。このように草を薙いで難を逃れたことから、天叢雲剣は草薙剣と呼ばれるようになりました。

白鳥になった日本武尊

無事に帰った日本武尊は、約束通り美夜受比売と結婚しますが、今度は伊吹山の荒ぶる神を討ち取りに向かうことになります。草薙剣を妻の守り刀として置いていった日本武尊は、伊吹山の神との戦いに敗れてしまいました。かろうじて山を下り、大和へ向かった日本武尊でしたが、容態はどんどんと悪くなり、懐かしい故郷へ帰ることなく亡くなってしまいます。古事記によるとその遺体は、大きな白鳥となり、大和へ向かって飛んで行ったそうです。

熱田神宮へ奉納された草薙剣

美夜受比売のもとに残った草薙剣は、尾張氏の手によって祀られることとなり、熱田神宮が建立され、代々尾張氏が守ることになりました。しかし、草薙剣は数々の危機に遭っています。熱田神宮で起きた火災に巻き込まれたときには、草薙剣が入っていた木箱だけは無事だったそうです。また、第2次世界大戦中は、熱田神宮から岐阜県高山市の水無(みなし)神社へ疎開していました。このように大切に守られてきた草薙剣ですが、実は誰も実際に見たことがありません。

もし見てしまうと神の怒りに触れてしまうため、誰も見てはならないのです。見るなといわれると余計見たくなってしまったのが、平安時代の陽成(ようぜい)天皇です。ある夜、陽成天皇が草薙剣を鞘から抜くと、剣は光を放ち神殿内が明るくなるほどでした。怖くなった天皇が思わず剣を離すと、ひとりでに鞘に戻ったそうです。

平家とともに沈んだ形代の草薙剣

本物が熱田神宮に落ち着いてからも、草薙剣は三種の神器として、天皇に受け継がれていました。そして平安時代末期、平家が壇ノ浦の戦いで敗れたとき、三種の神器は僅か8歳の安徳天皇とともに海に沈んでしまいます。その後八咫鏡と八尺瓊勾玉は、源氏が見つけ出したのですが、草薙剣だけは見つかりません。

三種の神器がそろわないと正式な皇位継承ができないため、伊勢神宮にあったもう一振りの形代が献上されました。以後、八咫鏡の形代は皇居の賢所(かしこどころ)に、本物の八尺瓊勾玉と草薙剣の形代は、天皇の寝室隣にある剣璽(けんじ)の間に置かれています。

まとめ

本物の草薙剣が今も熱田神宮にお祀りされているという事実に驚いた方もいるのではないでしょうか?八岐大蛇の尾から出てきたという伝説の草薙剣が本当に実在していたのか、にわかには信じられないかもしれません。しかしもともと古事記や日本書紀は、当時の勢力争いや政権の成り立ちを神話に例えて伝えている書物のため、実際の出来事として草薙剣が登場する事件があったとしてもおかしくありません。

とすると今まで伝説・神話の世界だけの刀・剣だと思ってきたものが、もしかしたら実在している可能性もあります。草薙剣にまつわる伝説も、調べればもっと興味深い話が見つかるかもしれません。刀剣の世界は、まだまだ奥が深いようです。

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