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公開日:2023/02/01  

有名な武将はどんな刀を持っていた?源義経の愛刀をご紹介!


1159年、源義経は、源氏の武将である源義朝の九男として誕生し、幼名は牛若丸と呼ばれていました。源義経は、天才的な戦術家として、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いで平家に勝利をおさめました。源義経の愛刀は薄緑であったと伝えられています。今回は、その愛刀の所有者変更のエピソードや現在の保管先について解説します。

源義経とは

1159年、源義経は、源氏の武将である源義朝の九男として誕生し、幼名は牛若丸と呼ばれていました。源義経が誕生してからすぐの1160年、源義朝は平治の乱で平家の棟梁である平清盛に敗れ、鎌倉へ帰還の最中に討死します。兄である源頼朝はまだ12歳であったため助命され、伊豆へ流刑となり、母の常盤御前が平清盛の妾となることで、源義経は許され、6-7歳から鞍馬寺に住み始めました。

源義経は学問僧として将来が期待され、学問に励みました。源義経は15歳まで鞍馬寺で学問に懸命に取り組んだものの、平家に敗れた過去を知り、平清盛に対して怒りが湧き、平家が敵であると認識しました。真実を知った源義経は、平家打倒の野心に鞍馬寺を抜け出し、僧正が谷で武芸に打ち込みました。鞍馬山を出発し、諸国を転々とする源義経は、奥州と京都を行き来する豪商人である金売吉次と出会い、陸奥の話を聞き、金次吉次とともに、奥州平泉を目指しました。そして、奥州藤原氏の3代目当主である藤原秀衡と出会い、藤原秀衡のもとで武術を磨きました。後白河法皇の息子である以仁王が平家追討を命令し、源頼朝が挙兵しました。

源義経も続いて出陣しました。源義経が武術の天才であったことを記載している、いくつかのエピソードがあります。京の五条橋の上で、18歳の源義経(牛若丸)が笛を吹きながらやってきました。武蔵坊弁慶は襲撃しますが、見事に返り討ちに遭ってしまい降参し、武蔵坊弁慶は源義経の家来となりました。また源義経は、天才的な戦術家としても有名です。一ノ谷の戦いでは、突然崖を駆け下りて平氏本陣を奇襲しました。のちに、鵯越の逆落としと呼ばれる奇想天外の奇襲攻撃で平氏を大混乱に陥れ、同時に平氏側の陣に火が回ったことで敗北をさせました。わずかの騎兵で源義経が大勝利を収めた戦いでした。

そして、壇ノ浦の戦いでは水軍を編成し、平氏と一騎討ちをしました。一時、攻められていた源義経でしたが、船を操作する人員に狙いを定めて矢を射るよう命令をしました。矢が命中し、舵取りを失った平氏の船は沈み、形勢逆転し勝利しました。源義経は、念願であった平家の滅亡を達成しました。

源義経の愛刀

源義経の愛刀は薄緑であったと伝えられています。さまざまな伝説がある長さ2尺7寸(約80cm)の優美な太刀で、初期に名づけられた名前は膝丸でした。膝丸が登場する物語は、平家物語に付属している剣巻です。天皇家の血を引いている源満仲は、天皇より国を守護するよう命令されます。

そこで、国を守るのにふさわしい刀を装備するために、筑前国(現在の福岡県西部)三笠郡土山から優れた刀鍛冶を招きました。刀鍛冶は八幡大菩薩から夢のお告げを受け、刀鍛冶は2振の太刀を作りました。試し斬りとして罪人の首を斬ったところ、1振は膝元まで斬れたため膝丸と名付けられ、もう1振は髭まで切り落としたため髭切と呼ばれました。

膝丸⇒蜘蛛切⇒吼丸と名前を改め、吼丸は源為義から娘婿である熊野別当の行範に婚礼の引出物として贈られました。行範は「代々源氏に伝わる刀を自分が持つべきではない」と考え、熊野権現に奉納しました。源義経が譲り受けたのは、熊野権現に奉納された吼丸でした。源義経は喜びながら、熊野より春の山を分けて出てきたことから、新たに薄緑と名付けました。源義経が薄緑を手にして以降、それまで平氏の配下にあった山陰や山陽、南海、西海の兵士達が源氏側に味方することで、源義経は戦の勝利を導きました。

源義経の愛刀の現在

1193年、箱根権現へ奉納され、安息を得たはずの薄緑は戦で使用されるようになります。持ち主は曽我兄弟です。兄弟が父の仇を討つために箱根権現へ心願成就を祈祷したとき、兄の曽我十郎は木曾義仲が奉納した微塵丸を、弟の曽我五郎は兵庫鎖太刀を受け取りました。兵庫鎖太刀は、源義経が奉納した薄緑であったと伝えられています。曽我兄弟が仇討ちを成し遂げたあと、薄緑は源頼朝に召し上げられました。

その後の来歴は不明となり、現在、京都の大覚寺には重要文化財に指定されている薄緑が所蔵され、神奈川県の箱根神社には薄緑丸という日本刀が所蔵されています。どちらの日本刀も源義経の愛刀である薄緑であったとの確証はなく、行方不明の状態です。

まとめ

源義経は、天才的な戦術家として一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いで平家に勝利し、時代を大きく変えました。源義経の愛刀は薄緑であったと伝えられ、さまざまな伝説がある長さ2尺7寸(約80cm)の優美な太刀です。膝丸⇒蜘蛛切⇒吼丸⇒薄緑へと名前を変えてきた歴史があります。現在、京都の大覚寺には重要文化財に指定されている薄緑が所蔵され、神奈川県の箱根神社には薄緑丸という日本刀が所蔵されています。どちらの日本刀も源義経の愛刀である薄緑であったとの確証はなく、行方不明の状態です。

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