Skip to content
公開日:2024/08/28  

「人斬り鍬次郎」の異名で恐れられた新選組隊士!大石鍬次郎の愛刀とは?

大石鍬次郎の愛刀とは

新選組の「人斬り」大石鍬次郎

大石鍬次郎は、新選組の一員として元治元年(1864年)の10月、江戸で行われた二次募集を通じて入隊しました。遅い時期の入隊にもかかわらず、鍬次郎は卓越した剣術を持っており、その腕前は三段突きで知られる沖田総司と肩を並べるほどでした。入隊後、鍬次郎は沖田総司の一番隊に配属され、数々の戦闘に参加しました。慶応2年(1866年)の三条制札事件では、10人の隊士を率いて出動。また翌年の油小路事件では伊東甲子太郎を暗殺し、その剣技を示しました。

人斬り鍬次郎

鍬次郎の異名「人斬り鍬次郎」は、彼の冷酷な剣術と多くの戦闘経験に由来します。特に慶応3年(1867年)の天満屋事件では、斎藤一らと共に紀州藩士・三浦休太郎を護衛し、無事に任務を果たしました。こうした活躍を通じて、鍬次郎は一層の名声を得ました。しかし、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで新選組が敗北し、鍬次郎も江戸に帰還。その後、甲陽鎮撫隊と名を変えて甲州へ進軍しましたが、同年3月の甲州勝沼の戦いで再び敗北し、脱走しました。江戸に潜伏していた鍬次郎は、かつて親しかった三井丑之助に裏切られ、新政府に捕らえられました。坂本龍馬や伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられた鍬次郎は、龍馬暗殺を否定したものの、伊東暗殺を認めたため、明治3年(1870年)に斬首刑に処され、33歳でその生涯を閉じました。

大和守安定とその作刀

その大石鍬次郎の愛刀は、大和守安定(やまとのかみ やすさだ)と言われています。大和守安定は、江戸時代の武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)で活躍した刀工として知られています。彼の作刀は「良業物」として評価され、特に幕末の剣士たちの間で人気がありました。刀剣評価書「懐宝剣尺(かいほうけんじゃく)」においても高く評価されており、その切れ味の鋭さから戦闘向きの刀とされています。大和守安定の刀は、二尺五寸の長刀であり、豪刀としても名を馳せました。その作風は、同じく有名な刀工である虎徹に似ているとも言われており、その斬れ味は多くの剣士たちに愛されました。

幕末の剣士たちと大和守安定の関わり

大和守安定の作刀は、新選組一番隊組長の沖田総司や、新選組隊士の大石鍬次郎、さらには幕臣の伊庭八郎などが愛用したことで広く知られています。これらの剣士たちは、幕末という激動の時代において数々の戦闘を経験し、その中で大和守安定の刀を信頼していました。特に、沖田総司と並び称されるほどの剣の腕前を持つ大石鍬次郎は、大和守安定の刀を使用し、数々の戦闘でその名を轟かせました。これにより、大和守安定の刀は、単なる武器を超え、歴史的な価値を持つものとして現在でも評価されています。

大和守安定にまつわる伝説

大和守安定の作刀には、数々の伝説が存在します。その一つが、罪人の死体を用いて試し斬りを行い、五つ胴を斬ったという話です。この伝説は、大和守安定の刀がどれほどの切れ味を持っていたかを物語っています。大和守安定の刀は、ただの戦闘用の武器ではなく、その切れ味や性能から、多くの剣士たちの信頼を得ていた名刀として語り継がれています。

まとめ

大和守安定は、江戸時代に活躍した名刀工であり、その作刀は新選組や幕臣たちに愛されました。その刀剣は、歴史的な評価を受けつつ、現在でも「良業物」として高く評価されています。特に、沖田総司や大石鍬次郎などの有名な剣士たちが愛用したことで、大和守安定の刀は歴史的な価値を持つものとなりました。これらの刀剣は、現代においても刀剣収集家や歴史愛好家の間で高い人気を誇り、また注目されています。

よく読まれている記事