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公開日:2022/03/15  

尾張三作って?戦国時代に名を馳せた尾張国の三大刀工をご紹介

尾張国は、戦国三英傑と呼ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に所縁ある土地として知られています。戦国時代は、愛刀家として知られる戦国三英傑が治めていた尾張の国に、戦国時代末期からさまざまな名刀や日本刀の名匠が集まりました。その中でもとくに優れた技巧を持つ、尾張国を代表する3人の名匠を「尾張三作」と呼んでいます。

相模守政常

相模守政常は現在の岐阜県である美濃国に生まれました。岐阜県は関町を中心に、今でも刃物生産で栄えた町として知られていますが、すでにこの頃から美濃国の刃物は「折れず、曲がらず、よく切れる」と評され「五箇伝」と呼ばれる国内5本の指に入る日本刀の主要生産地、優れた伝統技術のひとつとして数えられていました。

この美濃国一帯で繁栄した刀工の一部が、武将のお抱え鍛治となることで尾張国に移住し、後々の「尾張関」と呼ばれる流派に発展したとされています。

相模守政常もその一人で、1567年(永禄10年)に豊臣秀吉の家臣である福島正則にその技量を買われ、尾張国小牧城下に移り住みます。元々は5代兼常を名乗っていた政常ですが、相模守という姓を拝領してからは、主に徳川家の御用鍛冶として作刀しました。

■政常の作風

相模守政常は打刀はもちろん脇差や短刀、槍、薙刀まで幅広く手掛けていました。そもそも政常の父にあたる名門美濃岐阜大道が槍と薙刀の名工といわれており、その技術を受け継いだ政常もまた、ジャンルを問わない刀工に長けていたようです。その多くに堀川風の作風が見受けられ、「地鉄は板目、刃文は湾れに互の目」とされています。

つまり、地鉄(刃の表面)は見た目が板目(材木の切り口)に似ており、刀身に見られる白い波のような模様は湾れ(大波がゆったりと波打つようにうねり)、互の目(丸い碁石が連続したように、規則的な丸みを帯びた文様)がつけられているのが特徴です。

飛騨守氏房

飛騨守氏房は1567年(永禄10年)、織田信長のお抱え鍛冶であった若狭守氏房の子として美濃国関に生まれました。当初は織田家の小姓として仕えていましたが、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いをきっかけに、主君であった織田信孝が自害し、浪人となります。

その後、縁はあるものの納得のいく主君との出会いに恵まれなかった飛騨守氏房は、父のもとで刀工を学ぶことになります。紆余曲折を経て刀鍛冶となった飛騨守氏房ですが、その高い技術を買われ、1592年(天正20年)に豊臣氏の第二代関白であった豊臣秀次の斡旋で飛騨守を受領したようです。その後、1610年(慶長15年)尾張国に名古屋城が完成するとともに、名古屋城下に移住し作刀しました。

■氏房の作風

太刀や短刀の作刀を得意とし、多くの作品が今でも現存しています。作風は身幅が広く反りの浅い豪壮な姿が特徴とされていますが、これは氏房の出身地である美濃国伝来の作風を踏襲しています。

美濃国の刀剣は歩兵での戦闘が主流であった戦国時代の実用性を重んじ、接近戦でも刀を素早く鞘から抜けることを重要視していたため、刀身は短く、できるだけ刃の反りを浅くした作刀を行っていました。

氏房の作品には、出自を伺わせるこの作風が色濃く生きているうえ、当時流行していた、身幅の広さと反りの浅さが特徴の慶長新刀風(1596年以降の新刀への移行期に制作された姿)を取り入れていたとも考えられます。

伯耆守信高

初代・伯耆守信高もまた、相模守政常、飛騨守氏房と同じく美濃国の出身です。現在の岐阜県南部で作刀技術を磨いた後、飛騨守氏房と同じく名古屋城の完成と共にその城下へ移住しました。

1665年(寛文5年)、信高が34歳のときに伯耆守を受領し、3代信高を襲名。伯耆守信高は美濃国から尾張国へと流れた尾張関の総代を務め、武芸が盛んで強靭な作りの刀を必要としていた尾張徳川家のお抱え鍛冶として活躍しました。尾張徳川家からの信頼は厚く、5代にわたり伯耆守を受領したといわれています。

■信高の作風

作風は質実剛健。総体的に大人しいところを最大の特長としながらも、豪壮な造込みで、まさに業物と呼ぶに相応しいでき栄えが特徴です。

伯耆守信高の作品には沸本位(刃文の境界線にキラキラと光る白い微粒子が肉眼で確認できること)で互の目乱(丸い碁石が連続したように、規則的な丸みを帯びた文様がさまざまに乱れて見える様子)が多く見られます。身幅が広い点は飛騨守氏房と同じく美濃国伝来の作風や時代の流行であった慶長新刀風を取り入れていたようです。

 

今回紹介した尾張三作はいずれも姓に「守」を受領していますが、当時は刀鍛冶が「守」を拝領することはとても珍しいことでした。多くの刀鍛冶が活躍していた戦国時代であっても、それだけ優れた作品を生み出し続けていたことが伺えます。

尾張三作のような刀匠の作った刀は、おおむね製作者の名で呼ばれ、後世まで受け継がれます。刀には製作者の銘(名前)を入れることも一般的だったため、現存する尾張三作の刀剣に出会った際には、ひと目で誰の作品かを知ることもできるでしょう。

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