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公開日:2024/08/13  

新選組の中でも屈指の巨漢隊士!島田魁の愛刀は?

島田魁の愛刀とは

新選組の巨漢隊士!島田魁

島田魁(しまだ かい)は、文政11年1月15日(1828年2月29日)に美濃国方県郡雄総村(現岐阜県岐阜市長良雄総)で生まれました。庄屋の次男として育った彼は、幼い頃に羽栗郡石田村(現岐阜県各務原市)の永縄半左衛門の養子となり、その後母方の祖父、川島嘉右衛門に預けられました。剣術に目覚めたのはこの頃で、名古屋城内の御前試合で優勝し、大垣藩の嶋田才に見初められて養子となり、嶋田家を継ぎます。江戸に出て心形刀流の坪内主馬道場で修行を積み、その際に永倉新八と親しくなりました

鍵となる逸話と剣術の技量

島田魁は身長182cm、体重150kgの巨漢で、その怪力ぶりは数々の逸話に残っています。特に鳥羽・伏見の戦いで重装備の永倉を土塀の上まで引き上げた逸話は有名です。彼の愛刀は奥州仙台住源兵衛国包と言われており、ニ尺四寸刃身ヤヤ左ニ曲ガリ刃コボレ大小十四ケ所との記録が残っています。心形刀流種田流槍術に精通し、その技量は名高いものでした。新選組の戦闘において重要な役割を果たし、その功績は池田屋事件や函館戦争などで顕著でした。

新選組での活躍

永倉と京都で再会し、文久3年(1863年)に壬生浪士に入隊しました。その後、新選組と改名した組織で諸士調役兼監察の任に就き、副長土方歳三の命令で隊士の粛清などを行う「汚れ役」を担いました。元治元年(1864年)の池田屋事件では古高俊太郎の捕縛に貢献し、後に伍長を兼任しました。慶応3年(1867年)の油小路事件や、御陵衛士による近藤勇襲撃でも重要な役割を果たし、近藤の命を救いました。鳥羽・伏見の戦いでは決死隊を組織し、箱館戦争まで戦い抜きました。

まとめ

明治2年(1869年)に降伏した後、島田は名古屋藩に預けられましたが、謹慎が解かれると京都で剣術道場を開きました。新政府への出仕の話を断り、西本願寺の夜間警備員として働きました。明治33年(1900年)3月20日に西本願寺で倒れ死去し、享年73でした。彼の墓は東大谷墓地にありましたが、現在はなく、遺骨は大谷祖廟(東大谷)に納骨されています。島田魁は、幕末維新の激動期を生き抜き、新選組の中でも特筆すべき存在として後世にその名を刻みました。新選組の記録を綴った『島田魁日記』を残し、その生涯と功績は日本刀や刀剣の歴史においても重要な位置を占めています。

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