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公開日:2022/12/01  

有名な戦国武将はどんな刀を持っていた?武田信玄の愛刀をご紹介!


かつて「神童」の1人と呼ばれた少年は成長すると賢さと強さを持って、戦場を駆けまわり強さを示しました。名を武田信玄と言います。上杉謙信と名を連ねることの多い、武田信玄がどのような人物かと聞かれると大柄な男というイメージが強いですが、意外な一面も持っていました。今回は武田信玄について、愛刀を含めて紹介していきましょう。

武田信玄とは

実は武田信玄は暴君で有名な織田信長にも恐れられていたほど人物です。また「風林火山」という旗を掲げ、戦場を駆けます。しかし持病のために、志し半ばで生涯を閉じてしまいました。武田信玄の人柄や、戦いも合わせて紹介していきましょう。

神童と呼ばれた

武田信玄は1521年に甲斐武田氏の嫡男として生まれます。少年時代から武術や学問に優れており「神童」と呼ばれるほど賢く優秀でした。しかし賢すぎるあまり父親の「武田信虎」からは嫌われており、家督は弟に継がせると聞くと家督を継げない可能性が出てきます。

考えた武田信玄は後にクーデターを起こし、父の武田信虎を駿河の「今川義元」の元へ追放してしまうのです。皮肉なことに信虎は信玄よりも長く生きたといわれています。父を追い出し無理矢理武田家の家督を継ぐのです。戦国時代では子が親から、兄弟の間で、と力で権力を奪うことが日常な時代となっていました。しかし兄弟仲はよく、弟は戦の補佐の1人として共に戦っていたといわれています。

徹底的に考えられた戦を行う

信濃への進行に苦戦を強いられる武田信玄は「戦わずして勝つ」という心理戦を行います。武田信玄が考えた心理戦とは敵の城の外に将兵たちの首を並べ、さらに街の女子どもを下男や下女に落としてしまうというものです。敵軍の恐怖心を煽ると同時に心揺さぶる作戦でもあり、何より自分の軍の戦力を削らないようにするための作戦でもありました。冷徹で有名な織田信長にも負けない冷酷さが感じられます。

また戦いにおいて、情報収集を何よりも重要視していました。敵軍のことを徹底的に調べ尽くし、負けない確信を持った時にしか攻め入ることはしないほどです。また忍びたちを使い日本中の情報も集めさせたこともあり、日本中の情報を多く持つ武田信玄を織田信長さえも恐れたといわれます。優秀な武田信玄の冷静で慎重、綿密な計画を行う性格が見えるものでしょう。

豊な国のために考えることが強さの所以

戦いを続けることは自分の両国を拡げることでもあるため、武田信玄は出陣をし続けました。戦に勝ち領土を拡げると家臣に褒美を与え、自分の領地を守ることで領民の支持を得ることがもっとも重要であると考えます。

また戦には「負けないこと」と考え、勝ちすぎることは油断を呼ぶと考えます。理由は戦いで圧勝すると、自軍の活気はつくが己惚れてしまい敵軍へ隙を作るからです。武田信玄の強さは慎重すぎるといわれんばかりの性格や、考え抜かれた戦略があったからでしょう。

領国や領民のためにまだまだ強さを発揮するはずだった武田信玄でしたが、持病の悪化には逆らえず亡くなってしまいます。武田信玄の死は隠されるよういわれていましたが、諜報活動が盛んでもあった時代。すぐに伝わり、武田信玄を恐れていた人物の1人、織田信長が安堵したと言います。

上杉謙信との12年間の戦い

「川中島の戦い」といい、宿敵とも呼べる上杉謙信と長らく戦いを続けました。通常の大きな戦いや、小競り合いのような戦いを繰り返してきたのです。上杉謙信と武田信玄の2人の間柄にはさまざまな説があります。2人には友情があった説、凄惨な作戦の実行をいとわない武田信玄を上杉謙信が嫌っていたというなどの説がありました。両者の真意は定かではなくとも、義に厚い人柄である上杉謙信のことを武田信玄は認めていたといわれています。武田信玄は亡くなる間際に跡継ぎに対して「困ったときは上杉謙信を頼るように」と、遺言を残すほどでした。敵の大将であれども、人柄や力を素直に認める強さを持っている素晴らしい人物です。

武田信玄の愛刀

武田信玄の愛刀である「来国長」(らいくになが)。重ね厚めで身幅は狭めであり、地鉄は小板目、地沸よくつき波紋は沸できの中直刃に物打ちより焼き幅が広い造りになっています。本太刀の長さは約79.3cm、反りは約2.5cmです。

武田信玄の愛刀の現在

現在武田信玄の愛刀である「来国長」は重要文化財に指定され、武田信玄の回忌の際に山梨県甲州市にある「恵林寺」へ奉納、所蔵されています。機会がある方はぜひ見てみてください。

まとめ

武田信玄について愛刀を含めて紹介しました。優秀な武田信玄はクーデターを起こしてまで家督を継ぐものの、根本の考えは自分が納める領国のことや領民のことを考えていたのでしょう。神童と呼ばれるほどの賢さを持っていたがために、父親に嫌われてしまうことはきっと悲しかったはずです。しかし人柄を認めることも武田信玄の強さの1つだったのではないでしょうか。また武田信玄の愛刀も強き持ち主と共に眠っています。

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