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公開日:2022/12/01  

有名な戦国武将はどんな刀を持っていた?徳川家康の愛刀をご紹介!


徳川家康は剣士だったといわれています。戦国時代は刀で戦う時代ではなく槍で戦うスタイルが浸透していましたが、徳川家康は自ら流派を立ち上げるなど、熱心に剣の道を歩んでいました。そのため、徳川家康は刀剣を大切にし、鍛錬を怠りませんでした。徳川家康の愛刀と現在について紹介します。

徳川家康とは

人質として幼少期を過ごし、豊臣秀吉の天下統一を支援し、ようやく征夷大将軍になれた徳川家康について紹介します。

人質として過ごした幼少期

1542年、松平広忠の嫡男として誕生しました。1547年に人質として今川家に送られ、その後織田家に人質として送られます。1549年に再び今川家に人質となるなど、幼少期は人質として過ごしました。徳川家康の性格をよく表しているホトトギスの句は、幼少期の人質の経験からくるものだったといわれています。

桶狭間の戦い

桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られました。これをチャンスと捉えた徳川家康は岡崎城を奪取します。その後、織田信長と同盟を結びました。

本能寺の変

本能寺の変の直後、徳川家康は明智光秀と同じく畿内にいました。そのことは明智光秀に知られていたので、同行者30名程度とともに急いで畿内を脱出します。その後、豊臣秀吉が明智光秀を討ったため、しばらくは豊臣秀吉と織田家の家臣との争いを傍観することになります。

豊臣秀吉の天下統一を見守った後は天下取りへの下準備

徳川家康は1586年に関東8か国を治めることになりました。その後の1590年に北条氏の討伐に参加しています。そして1598年に豊臣秀吉が亡くなると天下取りの準備を開始します。

関ヶ原の戦い

1600年に関ヶ原の戦いが起こりますが、わずか6時間で勝敗を決しました。1603年に征夷大将軍となり、1605年に徳川秀忠に征夷大将軍を譲った後も実権を握り続けていました。

徳川家康の愛刀

こちらでは3振紹介します。

物吉貞宗

徳川家康が腰に差して出陣すると必ず戦で勝利するといわれていました。そのため、徳川家康はとても大切に脇差として使用していたそうです。銘は無銘、鑑定区分は重要文化財、刃長は33.2、徳川家康、尾張徳川家と伝来しました。

鯰尾藤四郎

鎌倉時代に現在の京都府の刃工として活動した吉光によって作成されました。彼が作った刀には藤四郎という名称が付けられています。銘は吉光、鑑定区分は未鑑定、刀長は38.6、織田信雄、豊臣秀吉、豊臣秀頼、尾張徳川家と伝来しました。

ソハヤノツルキ

初代征夷大将軍である坂上田村麻呂が所有したといわれている刀剣です。ソハヤノツルキは平安時代末期から室町時代中期に活躍した刃工の光世が作成したといわれています。銘はソハヤノツルキ、鑑定区分は重要文化財、刃長は69.6、徳川家康、久能山東照宮と伝来しました。

徳川家康の愛刀にまつわる刀剣エピソード

徳川家康は戦国武将には珍しい剣士でした。天下統一後の平和な時代の到来を予知して、単体での戦闘力の向上と武術として剣の道に邁進したい意思の表れだったのではないかといわれています。

剣士だった徳川家康

徳川家康は若年の頃から剣士として知られていました。いくつかの剣術流派を修行し、高い技術を保有していました。戦国武将のなかでも珍しく、自ら小野派一刃流や柳生新陰流を見出したといわれています。戦国時代は足軽の例にもみられるように槍を使用して戦をしていました。この頃には刀で面と向かって切り合うスタイルはやや廃れていたのです。それでも徳川家康が剣士だった理由は、単体での戦闘力を高めることに加え、天下統一後の戦がなくなった時代に相応しい武術だったと考えていたからだといわれています。

村正は徳川にかかわる刀剣として有名

村正が作成した刀剣は、徳川家康に近い親しい人物の命を奪ったり、徳川家康に怪我を負わせたりするなどしたため、妖刀といわれてきました。しかし、徳川家康は村正を避けていたわけではなく、村正の刀を所持していたことがエピソードとして残っています。

鯰尾藤四郎

徳川家康は、脇差や短刀にも興味を持っていました。切先の曲線がまるで鯰の尻尾のようにふっくらとしていたことから、このような名が付けられました。織田信長の次男である織田信雄から豊臣家に伝来しましたが、大阪城が落城したときに鯰尾藤四郎も焼失してしまいました。これを悲しんだ徳川家康は、焼き直しと研ぎ直しを指示し、鯰尾藤四郎の輝きを取り戻したといわれています。

徳川家康の愛刀の現在

名古屋市東区にある徳川美術館に、徳川将軍ゆかりの名刀が所蔵されています。

徳川将軍ゆかりの名刀が特別展示されていた

徳川美術館では、徳川将軍ゆかりの名刀が2019年に特別展示されていました。主な展示品は、短刀銘正宗、太刀銘光忠などです。短刀銘正宗は、大御所となった秀忠が、1625年鼠穴邸へ御成を行った際に持参した短刀です。太刀銘光忠は、5代将軍綱吉が、1698年麹町邸へ御成を行った際に持参した太刀です。

徳川美術館とは

徳川家康の遺品をはじめ、大名道具などを1万件余り所蔵しています。国宝である源氏物語絵巻、国宝の後藤藤四郎などの刀剣、国宝の初音の調度、重要文化財の豊国祭礼図屏風をはじめとした絵画、唐物漆器をはじめとした漆工、甲冑や刃装具などの武具や金具、重要文化財の白天目などの陶磁、色紙や掛物などの書簡、能面や能装束などの能や狂言、武家装束、文房具、楽器、工芸、宗教関係品、雛人形や雛道具などを展示しています。徳川の歴史を詳しく知りたい人には最適な環境です。

まとめ

剣士だった徳川家康がいかに刀剣を愛していたかがよく分かります。大阪城で焼き払われた刀剣の再建を指示したり、妖刃とよばれていた刀剣を忌み嫌うことなく所持していたなど、刀剣にまつわるエピソードが残されています。徳川家康の名刀を見学できる徳川美術館は名古屋市東区にあるので、興味のある人は見学してみてください。

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