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公開日:2023/03/15  

日本の甲冑の種類とは?有名な流派と甲冑師とあわせてご紹介!


みなさんは甲冑と聞いてどんなイメージを浮かべるでしょうか。テレビや歴史の教科書、博物館などで目にしたことはあるかもしれません。実際にその歴史や機能、使用方法などについて詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。今回の記事では、日本独自の甲冑の種類やその作り手に焦点をあてて、甲冑の歴史について紹介します。

日本独自の甲冑の種類

甲冑は命を懸けた争いにおける必需品で、その歴史は戦争に深く紐づいています。それでは日本における甲冑の歴史を解説しましょう。4世紀に朝鮮半島から“短甲”と“挂甲”と呼ばれる甲冑が伝えられました。この短甲と挂甲が日本で最初に使われていた甲冑といわれています。その後、平安時代になると遣唐使が廃止された影響で、日本独自の国風文化が育まれて行きます。平安時代には平将門の乱や藤原純友の乱など争いが激化し、その中で2つの種類の甲冑が使用されるようになります。

“大鎧”と“胴丸”と呼ばれるものです。大鎧は、騎馬戦を行う兵士が身に着けるものでした。機能としては、重く身動きがとりづらい代わりに、当時主流の攻撃手法だった弓矢から身を守るため高い防御力を誇りました。胴丸は歩兵用の甲冑です。大鎧よりも軽く機動性に優れていました。加えて、下半身を防御するために装着されている草摺という装備品も、大鎧が4枚で構成されていたのに対し、胴丸は8枚で作られており、歩きやすい構造になっていました。

時代が移り変わり、戦国時代になると“当世具足”という甲冑が一般的に使用されるようになりました。当世具足の“当世”は現代という意味で“具足”はすべてそろっているということを意味しています。すなわち、戦国時代における完全防御を実現した甲冑であることを意味していました。その特徴は、胴にあたる上半身を覆う部分が、1枚の革や鉄によって作られていて、それ以前の甲冑より軽量化されています。加えて、戦国時代では、鉄砲が武器として使われるようになったため、防弾のために鉄を多用して、防御力を高めていました。

さらに時代は移り江戸時代になると、甲冑の様相が大きく変化します。それは江戸幕府の統治により、戦争が行われなくなったことが大きく影響しています。戦争が行われなくと、戦場における実用的な装備品として使われていた甲冑は、別の機能を持つようになりました。それは、武士の格式を示す、表道具としての機能です。そうなると、実用性よりも、その見た目の力強さや豪華さが重要視されるようになり、飾りとして機能しました。

おもな甲冑の流派

甲冑の製作を専門として生計を立てていた人のことを、甲冑師といいます。甲冑師は流派によってその特色や強みが大きく異なり、その違いには拠点として活動した地方の色や、仕えていた大名の好みが大きく影響していました。

日本には5派とよばれる5つの有名な甲冑師の流派が存在しています。今回の記事ではその5派のうち3派を紹介します。

まずは春田派です。春田派はほかの4派と比べて、古い歴史をもつ甲冑師であり、その特徴は、てっぺんがややくぼんでいる形の兜を作ったということです。また、甲冑師の身分や地位が低く、自分が作った作品に流派の名を刻むことが慎まれていた時代に、ほかの流派に先立ち作品に名を刻み始めたといわれています。

続いて明珍派です。明珍派は、兜をつくることに特化していたことが大きな特徴としてあげられます。また明珍派は、歴史に名をのこす有名な甲冑師を多数輩出したことも特徴で、5派の中でもっとも在銘品が多いといわれています。

最後に岩井派を紹介します。岩井派は、ほかの流派が鉄を熱し負荷を加えながら形を整えていく甲冑鍛冶を主に行なったのに対し、甲冑の材料を糸で縫い合わせていく手法に特化していたことが大きな特徴です。岩井派の転機となったのが、時の支配者であった徳川家康の専属の甲冑師として登用されたことでした。家康の専属の甲冑師になったことで岩井派は高い格式を得て、それ以降、将軍の代替わりのたびに、恒例であった将軍の甲冑を新調する役目を務めました。

有名な甲冑師とは

甲冑師はもともと身分が低い職業という社会での認識がありました。しかし、戦国時代にかけて甲冑の重要が過去最大になっていくと同時に、時の大名である織田信長や今川家の経済政策により、流通機構が整えられ、一気にその市場規模は大きくなりました。すると、今までは注文を受けた場合のみ製作していた甲冑が、一般でも売買されるようになりました。こうした市場の拡大を受け甲冑師の身分は高まっていき、社会的にも格式のある職業となっていきました。ここからは、歴史に名をのこす有名な甲冑師を2名紹介します。

まず初めに紹介するのは、明珍派17代目甲冑師である明珍信家です。信家の作品で有名なのが、アメリカにあるメトロポリタン美術館の収蔵されている“六十二間筋兜鉢”です。また信家はあまりにも有名であったため、まったく信家が作った作品ではないものに、信家の名前を後銘した偽作が多く出回っているといわれています。

続いて春田派の甲冑師として活躍した春田光信を紹介します。春田光信は、厳島神社に収蔵されている大鎧で有名な甲冑師です。春田派はほかの4派よりも、早い段階で自分の作品に名を刻み始めたことで有名で、光信も自身の名前を作品に刻んでいきました。

まとめ

この記事では、日本の甲冑について紹介しました。甲冑は日本の歴史において、2つの機能を担ってきたことが分かりました。1つ目は、戦争における装備品としての実用的機能です。そして2つ目が、その家や藩主の格式を証明する表道具としての象徴的機能でした。注文を受けて作る甲冑は、家一軒分に相当するほどの値段がついたともいわれています。

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